昨日、7日ぶりに母を訪ねた。
私のことは忘れられているかもしれない、とドキドキしながら5階のエレベーターをおりた。
母にお近づくと「いつ来たの」と自然に声をかけてくれた。
ホッとした瞬間だった。
「少しずつ落ち着いていらっしゃいましたよ」
その言葉でさらにホッとした。
入所時から、部屋には動くと “ ピポピポピポ ” と、かなりけたたましく反応するセンサーの敷物があったが、それを取り外して、外に出たときだけ知らせるためのドアチャイムがつけられた。昼間でも結構よく聞こえるし、よい音色なのだ。
「これからの季節、風鈴みたいですね」
担当の方が話しかけてくれた。
つまり、部屋の中では危険はないので自由に動いていい、という判断らしい。
ここまでが昨日のこと。
ここからが今日のこと。
衣類の入れ替え、長年使っていた枕を用意し、自宅から茶葉と急須を持って行くことが主な仕事だった。
10時ごろに、デンタルクリニックの訪問診療で、歯のクリーニングをしてもらったあとの時刻に到着した。
ちょうど皆さんにそれぞれの好みの飲み物を配る時間で、母には50年以上も日常的に呑んでいる狭山茶を入れてくれた。
母と話していると、日本茶のよい香りが漂ってきた。
こんなにいい香りがするとは、今日の今日まで気づかなかったことに驚いた私だった。
こんなふうに一日に一回でも入れてもらえたら、母にとってはありがたいことだと思う。
スタッフの方々の心遣いに感謝しかない。
いつもは私がお茶を入れていた。にもかかわらず、香りに気づいて新鮮だった。
これも私が得られた「レスパイト・ケア(施設入所することによって、介護者が自分の時間を持つ)」の賜物であろうか。
これは多くのスタッフに支えられていることを、現場で身にしみた瞬間だった。
先日行われた施設の「懇談会」でも話題になっていたことがる。
介護は、サービスかホスピタリティーか。
そのことを考えながら、講習等々も受けているという。
またKさんからのメールにもあったが、『本来ケアの本質は、その人の固有の時間、歴史時間(カイロス的時間)を共有する事にあると思いますが、制度化された介護業務はどうしても定量化された時間管理(クロノス的時間)の中で業務が遂行されていきます。施設介護の限界のように思います』
限界の中でも、50年以上呑み続けたお茶を入れてくれる、ということは身体記憶のカイロス的時間を過ごさせてもらった、と言える。
母は、すぐにも呑みたそうだった。
言葉には出さなかったが、香りが懐かしかったかもしれない。
じれったそうに冷めるのを待った。
そして、表情も変えずに、お茶をすすっていた。
5月20日以来、久しぶりの我が家のお茶である。
他にも、ほぼ一週間過ぎたが、床に寝具をおろして就寝するということで、少しずつ落ち着きはじめたらしい。
ベットではなく布団を敷いて休む、という90年の習慣は、からだの芯にしっかり刻まれている固有の時間(カイロス的)、そのものなのだ。
深夜の状況はわからないが、朝・昼・夜の介護現場を垣間みながら、たくさん学ばせてもらっている。
徐々にです。
ぼちぼちです。
日常の些細なことは、けっして些細なことではないんですねー。
ひたすら、ありがとうございます。
私のことは忘れられているかもしれない、とドキドキしながら5階のエレベーターをおりた。
母にお近づくと「いつ来たの」と自然に声をかけてくれた。
ホッとした瞬間だった。
「少しずつ落ち着いていらっしゃいましたよ」
その言葉でさらにホッとした。
入所時から、部屋には動くと “ ピポピポピポ ” と、かなりけたたましく反応するセンサーの敷物があったが、それを取り外して、外に出たときだけ知らせるためのドアチャイムがつけられた。昼間でも結構よく聞こえるし、よい音色なのだ。
「これからの季節、風鈴みたいですね」
担当の方が話しかけてくれた。
つまり、部屋の中では危険はないので自由に動いていい、という判断らしい。
ここまでが昨日のこと。
ここからが今日のこと。
衣類の入れ替え、長年使っていた枕を用意し、自宅から茶葉と急須を持って行くことが主な仕事だった。
10時ごろに、デンタルクリニックの訪問診療で、歯のクリーニングをしてもらったあとの時刻に到着した。
ちょうど皆さんにそれぞれの好みの飲み物を配る時間で、母には50年以上も日常的に呑んでいる狭山茶を入れてくれた。
母と話していると、日本茶のよい香りが漂ってきた。
こんなにいい香りがするとは、今日の今日まで気づかなかったことに驚いた私だった。
こんなふうに一日に一回でも入れてもらえたら、母にとってはありがたいことだと思う。
スタッフの方々の心遣いに感謝しかない。
いつもは私がお茶を入れていた。にもかかわらず、香りに気づいて新鮮だった。
これも私が得られた「レスパイト・ケア(施設入所することによって、介護者が自分の時間を持つ)」の賜物であろうか。
これは多くのスタッフに支えられていることを、現場で身にしみた瞬間だった。
先日行われた施設の「懇談会」でも話題になっていたことがる。
介護は、サービスかホスピタリティーか。
そのことを考えながら、講習等々も受けているという。
またKさんからのメールにもあったが、『本来ケアの本質は、その人の固有の時間、歴史時間(カイロス的時間)を共有する事にあると思いますが、制度化された介護業務はどうしても定量化された時間管理(クロノス的時間)の中で業務が遂行されていきます。施設介護の限界のように思います』
限界の中でも、50年以上呑み続けたお茶を入れてくれる、ということは身体記憶のカイロス的時間を過ごさせてもらった、と言える。
母は、すぐにも呑みたそうだった。
言葉には出さなかったが、香りが懐かしかったかもしれない。
じれったそうに冷めるのを待った。
そして、表情も変えずに、お茶をすすっていた。
5月20日以来、久しぶりの我が家のお茶である。
他にも、ほぼ一週間過ぎたが、床に寝具をおろして就寝するということで、少しずつ落ち着きはじめたらしい。
ベットではなく布団を敷いて休む、という90年の習慣は、からだの芯にしっかり刻まれている固有の時間(カイロス的)、そのものなのだ。
深夜の状況はわからないが、朝・昼・夜の介護現場を垣間みながら、たくさん学ばせてもらっている。
徐々にです。
ぼちぼちです。
日常の些細なことは、けっして些細なことではないんですねー。
ひたすら、ありがとうございます。