ロバート・M・フリン (Robert M.Flynn 1920年3月12日-2009年2月7日) は、宗教家・教育者。プログレス・イン・イングリッシュ
http://www.meikei.org/EnglishCorner/prog1.htmlなどを中心とした著作活動や教育活動を行う。
1920年、ニューヨーク市生まれ。カトリック、イエズス会の私立高等学校(4年制)を卒業後、1937年8月14日イエズス会の修道会に入る、フォーダム大学(ニューヨーク市、2年間、文学専攻)、セントルイス大学(ミズーリ州、3年間、哲学専攻)で学ぶ。卒業後、ニューヨークの高校で英語、ラテン語、ギリシャ語、宗教を3年間教え、ベルギーとドイツに留学して神学を勉強する。1950年8月24日、Eegenhoven(ベルギー)にて司祭叙階。
1952年10月29日、神父として来日。イエズス会のキリスト教主義学校(ミッション・スクール)である六甲学院中学校・高等学校(神戸)や泰星中学校・高等学校(福岡)で35年間英語を教え、その指導実践のなかから、オーラル・コグニティブ・アプローチに基づいた教科書『プログレス・イン・イングリッシュ』全6巻を著す。1988年より津和野カトリック教会にて主任司祭を努めた後、萩、山口の教会にて司牧。六甲学院高等学校のバスケットボール部のOB会は氏の名前を付け「フリン杯」と呼ばれている。晩年は東京都練馬区上石神井のイエズス会ロヨラハウスにて静養していた。2009年2月7日にロヨラハウスにて逝去。
プログレス・イン・イングリッシュ(PROGRESS IN ENGLISH)は、エデック社
http://www.progress21.net/text/index.html発行の英語教科書である。略称プログレス。また本項目ではマイナーチェンジ版である「PROGRESS IN ENGLISH 21」についても解説する。
PROGRESS IN ENGLISH
主に私立や公立の中高一貫校で使われている。会話文中心であり、非常に分厚く高度な内容とも言われているが、その分文法からしっかり理解できるため、学び切ればかなりの実力が付くと言われる。この教科書を使っているかどうかを中学受験の際の学校選びの基準にする人もいる。
1年で1冊の計算でBOOK1~6までの6冊に分かれているが、内容が多く難度も高いため、中高6年間でBOOK4ないしは5までしか扱わない学校も多い。 著者は六甲学院や泰星学園で教鞭を取っていたイエズス会士の神父、ロバート・M・フリンである。表紙の色はBOOK1から順に、青・赤・緑・ベージュ・灰・紫。
上記のように内容が濃いゆえに、学校の授業だけでは消化不良になる生徒も多い。そのため、プログレス対策を銘打った英語塾も関東・近畿を中心に多く存在する。
本にはカセットテープ(現在はSD)が付属し、ヒアリングの練習が家庭でも出来るようになっている。
PROGRESS IN ENGLISH 21
上記のPROGRESS IN ENGLISHを元に、ロバート・キエサ・井坂保彦が監修し、麻布学園、栄光学園、聖心女子学院の中高等学校英語教師が執筆したものが、PROGRESS IN ENGLISH 21である。 2003年4月1日に第1版を発行。イエズス会出版に著作権がある。
亡くなった時に書いた文章を書き写します。
フリン先生との初めての出会いは、中一B組の担任に先生がなった時。それまでは、外国人と話をした事も無く、ちょっと怖いなぁと思ったのが正直な感想だ。ずっと、補欠だったが、バスケットボール部に入ったのも、フリン先生がバスケ部の顧問をしていたから、何となくだった。35期の部員が25人もいたのもフリン先生に惹かれて入部したのだと思う。当時、50代だった先生は華麗なランニングシュートを僕達に見せてくれた。英語(英作)の授業も面白いやり方で、教えてくれた。授業中はすべて英語。黒板に「人が絞首刑になる絵」を少しずつ描いていく間に、生徒が一つずつ質問をし、フリン先生が教室に隠した物を「絞首刑が執行される前」に答えられたら、生徒の勝ち、「絞首刑が行なわれたら」先生の勝ち。そんなゲーム感覚の授業だった。「PEACH BOY(桃太郎)」という、六甲の先輩が英訳した副読本も使った。補習も、朝早く来てしてくれた。SST(できる)、TNT(まあまあ)、SOS(がんばれ)と言う三つのグループに分かれて、勉強した。
夏休みには、六甲山で飯盒炊爨をしたり、「探偵と犯人」というフリン先生が提案したゲームを熱くなって、先生と僕達でやったりした。忘れられないのは、神戸から姫路、小豆島、高松、洲本と巡り、神戸に帰って来るサイクリングに連れて行ってもらった事。各地のカトリックの幼稚園とかに泊まった。小豆島での宿泊は六甲の先生の実家近くの海岸でテントを張って寝た。その小豆島の坂道で、僕は自転車ごと、道に開いていた大きな穴に突っ込み、自転車は空中へ。倒れた僕の上にその自転車が落ちてきて、かなりのケガをした事が忘れられない。フリン先生にすぐ病院に連れて行ってもらい、包帯男になって、それでも神戸まで帰って来た。中三の頃の話だ。
冬休みは鶴甲団地のアイススケート場にも連れて行ってもらった。
フリン先生と言えば、バイク。中一の時、フリン先生がバイクで家庭訪問に来られた時はうちの両親もかなりビックリしていた様だ。映画『大脱走』のスティーヴ・マックィーンみたいでかっこ良かった。母はいっぺんで、フリン先生のファンになってしまった。
高校時代、教室で当時流行っていた「コックリさん」をやっていて、「宗教が違うーっ!」と先生に怒られた事くらいで、フリン先生の印象は「あの笑顔」だった。ある時、先生と二人で話していて、アメリカの先生の実家には「鷲」が玄関の上に飾ってあると仰っていた。お兄さんが太平洋戦争で戦死、アメリカという国の為に亡くなった印として、「鷲」が飾られているのだと仰った。哀しそうな目をされていたのを今でも憶えている。
フリン先生の体調がすぐれないと聞き、山口のサビエル教会に行った時、既に痴呆が進んでいて、受け答えはされるものの、僕が誰かは分からなかった様だ。東京・ロヨラハウスに移られてからは諸先輩の誘いもあり、何度も御見舞いに伺った。六甲高校の校歌を歌う時だけ、唇が動いていた。
僕の中で、フリン先生は不死身だった。いつまでも、僕が生きているこの世に居て下さると思っていた。ある夜、午前1時半頃、メールチェックをしていると、前日の午後10時46分に、同期の○○神父から、「フリン先生危篤」の報が入っていた。すぐ、ロヨラハウスに電話したら、館長が出て下さり、「フリン先生は30分程前に亡くなられました」と。翌早朝、ロヨラハウスに車で駆けつけた。先生はいつもの病室でいつもの様に静かに眠っておられる様だった。頬を触ってみた。冷たかった。僕と先生の二人だけ。窓は全開、冷たい風が柔らかに白いカーテンを揺らしていた。20分位、そうしていただろうか・・・同期の○○が来て、フリン先生のご冥福をお祈りした。悲し過ぎて、涙が出なかった。「見返りを求めない愛」「無償の愛」を生涯かけて多くの人達に与え続けたフリン先生、マザー・テレサに会いに行かれ、とっても感動されていたフリン先生、フリン先生本当にありがとうございました。
ある六甲生が先生の言葉をブログに書き記してくれていました。
Keep a green branch in your heart,
and the singing bird will come.
先生の生き方を僕は自分の心に刻み付けました。僕がフリン先生と初めてお会いした1972年4月。先生は50代半ばでした。僕もその歳に近づいて来ました。今度は、僕ら教え子が「無償の愛」を周りの人達に配る番です。見てて下さいね・・・天国から。





