バレーボール女子のワールドグランプリ東京大会第5日は11日、東京の有明コロシアムで1次リーグが行われ、日本は長身選手をそろえたオランダにフルセットで敗れ、通算3勝2敗となった。オランダは2勝3敗。
日本は高さを生かしたオランダの強打やブロックに苦しんだ。好レシーブで第2、4セットをジュースの末に奪う粘りを発揮したが、最終セットは11-15で屈した。
4連覇を狙うブラジルは台湾を3-0で下して負けなしの5勝とし、12日に日本と対戦する。
(共同通信より引用)
手に汗を握る接戦だった。栗原のスパイクも良かったし、何と言ってもリベロの佐野の活躍が素晴らしかった。高橋・木村・荒木・庄司もそれぞれの持ち味を出し、頑張っていたが、チームプレイとして、5セット目等は3Dバレーを駆使し、オランダと闘って欲しかった。まだ、「全日本」としての「コンビバレー」の練習が出来上がっていないのかもしれない。「精神的」には強くなってきたと思う。











日本は高さを生かしたオランダの強打やブロックに苦しんだ。好レシーブで第2、4セットをジュースの末に奪う粘りを発揮したが、最終セットは11-15で屈した。
4連覇を狙うブラジルは台湾を3-0で下して負けなしの5勝とし、12日に日本と対戦する。
(共同通信より引用)
手に汗を握る接戦だった。栗原のスパイクも良かったし、何と言ってもリベロの佐野の活躍が素晴らしかった。高橋・木村・荒木・庄司もそれぞれの持ち味を出し、頑張っていたが、チームプレイとして、5セット目等は3Dバレーを駆使し、オランダと闘って欲しかった。まだ、「全日本」としての「コンビバレー」の練習が出来上がっていないのかもしれない。「精神的」には強くなってきたと思う。













こんなサイトを発見→http://www005.upp.so-net.ne.jp/kousien/H.htm
懐かしいでしょ。
校歌を憶えてますか?
山だ!山だ!六甲の山が呼んでいる。あの山のように・・・以降忘れました。今は、「甲子園浜小学校」として新しい建物になっています。









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「トランスフォーマー」もUIPの配給。トランスフォーマーに攻撃され逃げ惑う主人公サム(シャイア・ラブーフ)
「E.T.」「ジュラシック・パーク」、現在公開中の「トランスフォーマー」など洋画の話題作を国内で配給してきた大手洋画配給会社「UIP」が今年いっぱいで37年の幕を下ろし解散することが10日、分かった。
1970年に米メジャーのパラマウント映画、ユニバーサル映画が50%ずつ出資して「CIC」を設立。その後、85年にMGM映画、ユナイト映画が参加し「UIP」と社名を変え最大手の洋画配給会社になった。
70年代から80年代にかけて日本の洋画マーケットを席巻、「JAWS/ジョーズ」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「レインマン」など強力路線の大ヒットで一時は東京・有楽町マリオン全館をはじめ東宝系の洋画劇場を独占した。89年には「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」を先頭に44本公開され、興行収入400億円を稼ぎ出し業界トップに躍り出た。
その後、3年ほど前に米メジャーがMGM、ユナイトにM&A(合併・買収)を仕掛け、両社は「UIP」から離脱。さらにユニバーサルが国内の配給を「東宝東和」に委託、パラマウント1社だけが残るかっこうに。4社のメジャーの統合体だったのがパラマウント1社だけの運営となり、同社はコスト削減のために配給とビデオ・DVD販売を一手に手掛ける新会社の設立を決定。結果として「UIP」の解散につながった。
同社の三苫雅夫宣伝部長は「4社を統合してきたときより興行的強みがなくなった。ハリウッド映画も10億円台の中級作品がなく、100億円の大当たりする作品もあるがはずれると2~3億円と大コケしてしまう。大物プロデューサー不在も大きな原因です」と解散の背景にハリウッド映画の不振を挙げた。
■UIP
ユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズ・ファー・イーストの略。高木・ポール恒雄氏が代表取締役社長を務める。英ロンドンに本社を置き、その日本支社。本社は北米とカナダ以外で配給を行ってきたが、ユニバーサル、パラマウントの離脱で2009年までに残務処理を終え解散するという。
★今後も話題作続々
UIPの今後のラインアップは、衝撃的な愛のかたちを描くサミュエル・L・ジャクソン主演「ブラック・スネークモーン」(9月公開)、FBIのスペシャリストの活躍を描くジェイミー・フォックス主演「キングダム-見えざる敵-」(10月公開)、クレア・デインズ、ミシェル・ファイファー、ロバート・デ・ニーロ主演の愛と冒険のファンタジー大作「スターダスト」(同)、今年のカンヌ国際映画祭で話題をさらったアンジェリーナ・ジョリー主演、パートナーのブラット・ピット製作「マイティー・ハート愛と絆」(12月公開)が控えている。
(サンケイ・スポーツより引用)
「CIC」のマークが映画館のスクリーンに出て来ると、それだけで興奮したものだった。それが「UIP」になり、無くなる。映画ファンの僕にとってはとても淋しい事。










「E.T.」「ジュラシック・パーク」、現在公開中の「トランスフォーマー」など洋画の話題作を国内で配給してきた大手洋画配給会社「UIP」が今年いっぱいで37年の幕を下ろし解散することが10日、分かった。
1970年に米メジャーのパラマウント映画、ユニバーサル映画が50%ずつ出資して「CIC」を設立。その後、85年にMGM映画、ユナイト映画が参加し「UIP」と社名を変え最大手の洋画配給会社になった。
70年代から80年代にかけて日本の洋画マーケットを席巻、「JAWS/ジョーズ」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「レインマン」など強力路線の大ヒットで一時は東京・有楽町マリオン全館をはじめ東宝系の洋画劇場を独占した。89年には「バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2」を先頭に44本公開され、興行収入400億円を稼ぎ出し業界トップに躍り出た。
その後、3年ほど前に米メジャーがMGM、ユナイトにM&A(合併・買収)を仕掛け、両社は「UIP」から離脱。さらにユニバーサルが国内の配給を「東宝東和」に委託、パラマウント1社だけが残るかっこうに。4社のメジャーの統合体だったのがパラマウント1社だけの運営となり、同社はコスト削減のために配給とビデオ・DVD販売を一手に手掛ける新会社の設立を決定。結果として「UIP」の解散につながった。
同社の三苫雅夫宣伝部長は「4社を統合してきたときより興行的強みがなくなった。ハリウッド映画も10億円台の中級作品がなく、100億円の大当たりする作品もあるがはずれると2~3億円と大コケしてしまう。大物プロデューサー不在も大きな原因です」と解散の背景にハリウッド映画の不振を挙げた。
■UIP
ユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズ・ファー・イーストの略。高木・ポール恒雄氏が代表取締役社長を務める。英ロンドンに本社を置き、その日本支社。本社は北米とカナダ以外で配給を行ってきたが、ユニバーサル、パラマウントの離脱で2009年までに残務処理を終え解散するという。
★今後も話題作続々
UIPの今後のラインアップは、衝撃的な愛のかたちを描くサミュエル・L・ジャクソン主演「ブラック・スネークモーン」(9月公開)、FBIのスペシャリストの活躍を描くジェイミー・フォックス主演「キングダム-見えざる敵-」(10月公開)、クレア・デインズ、ミシェル・ファイファー、ロバート・デ・ニーロ主演の愛と冒険のファンタジー大作「スターダスト」(同)、今年のカンヌ国際映画祭で話題をさらったアンジェリーナ・ジョリー主演、パートナーのブラット・ピット製作「マイティー・ハート愛と絆」(12月公開)が控えている。
(サンケイ・スポーツより引用)
「CIC」のマークが映画館のスクリーンに出て来ると、それだけで興奮したものだった。それが「UIP」になり、無くなる。映画ファンの僕にとってはとても淋しい事。












520人が亡くなった日航ジャンボ機墜落事故から12日で22年を迎えるのを前に、墜落現場の群馬県上野村「御巣鷹の尾根」のふもとを流れる神流(かんな)川で11日夜、慰霊の灯籠(とうろう)流しがあった。遺族同士の連帯を求め今回初めて、兵庫県のJR宝塚線脱線事故と明石歩道橋事故で子どもを失った遺族4人が参加。亡き人たちへの思いを灯籠に託し川面に浮かべた。(千種辰弥)
参加したのは、107人が死亡した05年4月のJR宝塚線脱線事故の遺族、藤崎光子さん(67)=大阪市城東区=と石橋位(たか)子さん(62)=大阪府阪南市、11人が犠牲となった01年7月の明石歩道橋事故の遺族、下村誠治さん(49)=神戸市垂水区=と三木清さん(38)=兵庫県姫路市。
両事故の遺族は、日航機事故の遺族でつくる「8・12連絡会」事務局長の美谷島邦子さん(60)と、重大事故の再発防止について話し合うシンポジウムなどを通じ交流を深めてきた。今回、「安全を祈る人の『聖地』で、事故防止の声を大きくするため遺族同士交流しよう」と、灯籠流しへの参加を決めた。
灯籠流しに先立ち、参加者は上野村役場前の河川敷で、日航機事故に加えJR宝塚線事故、明石歩道橋事故などの犠牲者の霊に黙祷(もくとう)した。大小計約300個の灯籠に点灯し、日航機が墜落したとされる午後6時56分、川に流した。
「すべての人のいのちが大切にされる社会をつくりたい」と灯籠に記した藤崎さんは「亡くなった人の命を無駄にしない社会を作るため、遺族の連帯を強めたい」。下村さんは「事故の形は違っても原因が知りたいという思いは同じ。その問いに答える制度を作るための活動を続ける力をもらった」と話した。
4人は12日、日航機事故遺族らとともに御巣鷹山への慰霊登山をする予定。
(朝日新聞紙面より引用)
事故当日のJAL123便
当日123便は18時00分羽田発、羽田を南西に進んだ後、伊豆大島で西に巡航、串本上空で北西に進み、18時56分大阪(伊丹)着のフライトプランであった。使用機体はボーイング747のJA8119であった。 JA8119は就航以来約18800回の飛行を行い、同日は503便と504便で羽田~札幌、363便と366便で羽田~福岡を往復する定期便として飛行し、123便で5回目。伊丹到着後、130便として伊丹発羽田着の最終便を運航する予定であった。また、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。
乗務員は、高浜雅己機長(49歳)[6]、佐々木祐副操縦士(39歳)、福田博航空機関士(46歳)の男性3人のコックピットクルーと、波多野純チーフパーサー(39歳)を筆頭とする客室乗務員(女性11人)12人の計15人、乗客は509人。コックピットでは、機長昇格訓練を受けていた副操縦士が機長席に座り操縦、クルーへの指示を担当。機長は副操縦士席で副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当していた。当日、航空機関士は前2回JA8119に、副操縦士は別の機にそれぞれ乗務し、機長は当日最初のフライトであった。
18時04分、乗員乗客524人を乗せた123便は、定刻をやや遅れて[7]羽田空港18番スポットを離れ、18時12分、当時の滑走路15から離陸した。
異常事態発生
18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ft(7170m)を通過したところで異常事態が発生する。突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、その際ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不可能になってしまう[8]。フゴイドやダッチロール[9]を起こした機体は迷走するとともに上昇、降下を繰り返すものの、クルーの操縦により17分間は20000ft(6000m)以上で飛行を続ける。18時40分頃、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギア(降着装置)を降ろした後、富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22000ftから6000ftへと一気に15400ft (4600m) も降下する。その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉上空で左へ旋回、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい出す。
キャビン内の状況
機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデット・アナウンス[10]が流れる。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。また一部座席では着水に備え、救命胴衣の着用なども行われた。男性チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。なお、機内は異常発生直後から墜落まで、さほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動している。その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全姿勢(前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる)」をとって、衝撃に備えることになる。乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機内の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。これらの遺書は、後に事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。
なお、客室乗務員は終始乗客のサポートをしていたと生存者が語っており、機体後部に取り付けられていたボイスレコーダ(CVR)には幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予想してか「予告無しで着陸する場合もある」との放送、「地上と交信できている」との放送が墜落直前まで記録されている。また、不時着後に備えて乗客に出す指示をまとめた、客室乗務員の一人によるメモや、墜落現場から発見されたカメラで撮影された、キャビン内の写真が見つかっている。
地上との交信
123便は18時24分47秒に緊急救難信号「スコーク77(7700)」を発信、信号は東京航空交通管制部(ACC)に傍受される。直後に機長が無線でACCに対して緊急事態発生のため羽田へ戻りたいと告げ、ACCはそれを了承した。123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。ACCは右左どちらへの旋回をするか尋ねると、機長は右旋回を希望した。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。
27分 ACCが123便に緊急事態を宣言するか確認し123便から宣言が出された。その後123便を羽田へ誘導し続ける。この時ACCは続いて123便に対してどのような緊急事態か尋ねたが応答は無かった。また、ACCは日航本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。
28分 ACCは123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。ACCはこの時初めて123便が操縦不能に陥っている事を知る。
31分 ACCは羽田より近い名古屋に緊急着陸を提案するが123便は羽田を希望する。通常航空機と地上との交信は英語にて行われているが、123便のパイロットの負担を考え、日本語の使用を許可し、以後ACCと123便は一部日本語による交信が行われている。
33分頃 日航はカンパニーラジオ(社内無線)で123便に交信を求め、35分、123便からドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下しているので後ほど呼び出すまで無線をモニターするよう求められ、日航は了承した。
40分 ACCは123便と他機との交信を分けるため、123便専用の周波数が準備され、123便にその周波数に変えるよう求めたが、返答は無かった。
42分 123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるよう求めたが、一部航空機は通常周波数で交信を続けたため、ACCは交信をする機に個別で指示し続けた。
45分 無線のやり取りを傍受していた在日アメリカ軍の横田基地(RAPCON)が123便の支援に乗り出し、123便にアメリカ軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは操縦不能との声が返ってきた。ACCが東京(羽田)アプローチ(APP)と交信するかと123便に提案するが、123便は拒んだ。
47分 123便は千葉の木更津へレーダー誘導するよう求め、ACCは真東へ進むよう指示し、操縦可能かと質問すると、123便から「アンコントローラブルです」と返答がきた。その後、APPの周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。
48分 無言で123便から機長の荒い呼吸音が記録されている。
49分 日航がカンパニーラジオ(社内専用無線)で3分間呼び出しを行ったが応答は無かった。
53分 ACCが123便を呼び出した。123便から「アンコントロール」と無線が入ってくる。ACCとRAPCONが返答、RAPCONは、横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。ACCもAPPの周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。
54分 日航も呼び出しを行ったが応答は無かった。123便から現在地を尋ねられ、APPが羽田から55マイル(100km)北西で、熊谷から25マイル(45km)西と告げる。
55分 APPから羽田と横田が緊急着陸準備を行っておりいつでも最優先で着陸できると知らせ、航空機関士が「はい了解しました」と返答する。この言葉が123便からの最後の交信となった。その直後にAPPが123便に対し、今後の意向を尋ねたが応答は無かった。その後も56分前までAPPとRAPCONが123便に対して呼び出しを行ったが応答は無いままだった。
57分 RAPCONが123便に対し、「貴機は横田の北西35マイル(65km)地点におり、横田基地に最優先で着陸できる」と呼びかけ、ACCも123便に対して横田基地に周波数を変更するよう求めたが、この時、既に123便は墜落していた。
コックピットと機体の状況
衝撃音がした直後、機長は航空管制官への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。
その際、管制官の「右と左のどちらへ旋回するか?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる『右旋回』を要求している。これは山岳地帯へ迷走飛行した一因であり、現在も謎として残っている判断であるが、副操縦士が左側の機長席に座っていたことで機長にとって視界が良い右旋回を選択したのではないかと推測されている。
異常発生直後から油圧操作の効果がほとんど無いにもかかわらず繰り返し操縦桿での操舵を試みるなど、クルーは操縦不能になった理由を最期まで把握できていなかった模様である(操縦席から尾翼部分は目視できないため、把握できなかったのは致し方ない)。また、油圧系統全滅を認識しながらもクルーは油圧での操縦を試みている。
コックピットボイスレコーダー(CVR)の解析によると、異常発生から墜落まで、操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路の巡視・計器類などの監視・パネルの操作・管制官との交信・クルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信、さらに副操縦士の補助は航空機関士がしていたと推測されている。
CVRには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っている。はじめに残っていた音声は「最初の衝撃音」直前の客室とコックピットとのやり取りだった。しかし、このやり取りの最中、冷静沈着な客室乗務員の声とは裏腹に、コクピット内の副操縦士の声は、正常な状態とはいえない、異常ともとれる緊迫した声であったと分析する説があった。この緊迫説を基に、異常発生以前からパイロット達は何らかの異変を察知していたとする説もある。また、18時21分頃、羽田のJAL社との交信では冷静で正常な音声だったと分析されており、もしこの説が事実だとした場合、18時21分から18時24分以前の僅か3分足らずでパイロットの冷静さを奪う程の機体の重大な異変が起きたという事になる。しかし、実際には直接客室乗務員と会話をしていた機関士の声が、口角の上がった正常な話し方をしていることから、コックピット内の不明瞭な音声でない、インターホンを通じて録音された音の鮮明なボイスレコーダーのチャンネルの音声が公開された今、この説を重要視する専門家は皆無に等しい。
18時24分35秒頃、CVRに何らかの衝撃音[11]が録音されている(衝撃音直後に機長は「なんか爆発したぞ」と言っている)。直後にオートパイロットが解除され機体(エンジン、ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、着陸ギア等に異常がなかったが、航空機関士が「ハイドロプレッシャー(油圧)をみませんか」と提案する。25分、機長はスコーク77を発信し、ACCに羽田へ引き返すことを要求した。無線交信の直後、機長が副操縦士に対し「バンクとるなそんなに」と怒鳴る声が記録されている。しかし、副操縦士は「(バンクが)戻らない」と返答した。その際、航空機関士がハイドロが異常に低下している事に気づいている。27分、異常発生から僅か3分足らずで圧力の喪失を示すと思われる「ハイドロプレッシャーオールロス」という航空機関士の音声が記録されている。
同じ頃客室の気圧が減少している事を示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールが出来ない機体はフゴイド運動やダッチロールを繰り返し、降下、上昇を反覆した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「上げろ」と言う言葉が記録されている。
31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室のドアが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(ディセンド)と同時に酸素マスク着用を提案[12]、35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している。
37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1000mあまりの上昇や降下を繰り返すなど、きわめて不安定な飛行を続けた。これを回避するために38分頃着陸ギアを降ろそうとするが油圧喪失のため降りなかった。40分、パイロットはギアの自重により着陸ギアを出すバックアップシステムを用いて着陸ギアを降ろした。この操作によって機体は右に大きく旋回しながら降下し、同時に横揺れ角の振幅が縮小して多少安定した。
46分、機長の「これは駄目かも分からんね」との発言が記録されている。47分頃から彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。この頃から山岳地帯へと迷走して行ったと思われる。この時航空機関士が操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ます声が残っている。48分頃には右、左との方向転換が繰り返し指示されている。その会話の中、機長が操縦している副操縦士に対して「山にぶつかるぞ」と緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6000ft(1800m)前後をさまよっていた。この間、航空機関士が副操縦士の補助をしていた様子である。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答、機長は「じゃあ・・・・[14]できる?」と聞くが副操縦士は「ききません」と返答する。
49分頃、機首が39度に上がり、速度は108kt(200km/h)まで落ちて失速警報装置が作動した。この頃から機体の安定感が崩れ何度も機首の上げ下げを繰り返し、そのたびにエンジン出力(パワー)の最大を表す「マックパワー」と指示する声が残っている。50分、困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と励ます音声が残っている。機長が「頭下げろ、がんばれ」との励ましに対して副操縦士は「今舵いっぱいです」と叫んでいる。この頃速度が頻繁に変化し、不安定な飛行が続いていたためか、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。51分、依然続くフゴイド運動を抑えるため、電動でフラップが出され、53分頃から機体が安定しだした。
54分、クルーは現在地を見失い、羽田に現在地を尋ね埼玉県熊谷市から25マイル西の地点であると告げられる。その直後、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180kt(330km/h)まで落ちた。55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね、副操縦士は「はいフラップー10(今10度下がっているという意味)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。
しかし55分12秒、フラップを下げた途端、機体は右にそれながら急降下を始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップを止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「あーっ」という叫び声が記録されている。50秒頃、副操縦士が「フラップアップフラップアップ」と連呼し、恐らく航空機関士がすぐさまフラップを引き上げたが更に降下率が上がった。この頃高度は10000ft(3000m)を切っていた。56分00秒頃、機長がエンジン出力とフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「あげてます」と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、横揺れ角も最大80度を超えた。機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と叫び続けた。
墜落
クルーの努力も空しく123便は降下し続け18時56分14秒、対地接近警報装置が作動。同17秒頃、機体はわずかに上昇しだしたが、18時56分23秒、機体後部と右主翼が樹木と接触、反動で一度は浮上したものの、機体は大きく機首を下げ右側に傾き、26秒に右主翼が地面をえぐり、機体の強度が失われて破壊が始まり、垂直・水平尾翼、右主翼が脱落。28秒、機体後部が離脱、その後機体全体の破壊が始まった。機体は機首を下げながら右側に回転して行き、18時56分30秒、高天原山の斜面に前のめりに反転するような形で墜落衝突した。墜落前、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は346kt (640km/h)に達していた。18時56分28秒まで録音され続けていたコックピットボイスレコーダーにも23秒と26秒に衝撃音が残されている。また、一度目の衝撃音の直前には、機長の「もーうだめだ」(「あっーだめだ」ともとれる)との叫び声が記録されている。
衝撃で機体前部から主翼付近の客室は完全に圧壊し炎上、両主翼も離断し炎上。客室後部と尾翼は勢い余って山の稜線を超えて斜面を滑落していった。機体の大半は大破し、原型を留めていなかった。しかし、客室後部はそれ以外の機体部位と比較して衝撃の度合いが軽く、また炎上を免れたために、生還した人物の証言によれば墜落当初は生存者が多数いたとの事であるが、墜落現場発見までに時間がかかり朝までにほとんどの人が息絶えたという。結局、この客室後部から奇跡的に4名が生還した。
報道
NHK
NHK総合テレビにおいては午後7時の定時ニュースの終了直前(午後7時26分)に、松平定知アナウンサーから「羽田の空港事務所に入った連絡によると、午後6時に羽田を出発した大阪行き日航ジャンボ機の機影がレーダーから消えた」と短い原稿読み上げがあった。ミニ番組「テレマップ」を挟み、午後7時30分からはお盆の夏季編成としてNHK特集『人間のこえ・日独米ソ・兵士たちの遺稿』が予定通り始まったが、午後7時35分頃には「急遽番組を中止します」のアナウンスとともに画面はニューススタジオに切り替わった。このとき、専門家として『マッハの恐怖』などの航空事故解析の著書に実績のある柳田邦男(元NHK社会部記者でもある)が解説に入ったが、当日の午後9時40分からは柳田原作のドラマ『マリコ』が放送される予定で、ドラマの作者が航空専門家という偶然があった。ただし、事故発生当時、本人は自宅にいて、当時NC9(ニュースセンター9時)のキャスターだった木村太郎氏から出演要請により、多摩の自宅からタクシーで入局した。局に向かうタクシーの中で、テレビの1-3チャンネルが受信できる携帯ラジオを使ってNHKテレビのニュースを聴きながら事故の全貌を分析したという。(本人著:「事実の考え方」新潮社より)。この後、日航本社、運輸省、帝国ホテル(乗客家族の対応拠点)、大阪空港、当初墜落地点とされた長野県の長野放送局や長野県警などからの中継を交え、終夜放送となった。
NHKテレビドラマ『クライマーズ・ハイ』のワンシーンに、テレビ内映像として松平定知アナウンサーが速報で第一報を伝えるシーン、大阪空港日航対策室からの報告、NHK長野放送局からの報告、NHK社会部からの最新情報を伝える当時の映像が使われた。
日本テレビ
日本テレビの第一報はバラエティー番組『三宅裕司の大きなお世話だ!』(当時:毎週月曜午後7時30分)内で午後7時45分に流した「ニュース速報」だった。その後に放送されていた日本テレビの「ザ・トップテン」(当時:毎週月曜午後8時)では番組冒頭に報道センターから小林完吾キャスターが速報で報道、その後時折中断して、繰り返し日本航空123便が行方不明になったこと(その時点では墜落は未確定)を報道していた。午後9時から予定していた番組を変更し『NNN報道スペシャル』の報道特番に変更され、久保晴生キャスターがメインキャスターで伝え、専門家として航空評論家・中村浩美氏が解説した。その後午後11時からの『きょうの出来事』も大幅に内容を変更し報道特番態勢になり、後続番組『11PM』を休止し、小林完吾キャスターが『きょうの出来事』から引き続き『NNN報道特別番組』を朝まで伝える終夜放送とした。
TBS
TBSの第一報は『クイズ100人に聞きました』内で午後7時半頃流した「ニュース速報」だった、TBSは通常通りの放送態勢だったが、午後8時から『水戸黄門』、午後9時から『月曜ロードショー』映画「東京裁判・後編」を放送していたが、各番組内で逐一「ニュース速報」を流し続けた。TBSは映画「東京裁判・後編」を最後まで放送した後、日付が変わった13日午前0時02分からの『JNNニュースデスク』は内容を大幅変更して放送し、 午前0時17分からの『JNNスポーツデスク』の通常通りの放送を経て、 午前0時32分から予定していた深夜番組を休止し、「JNN報道特別番組」に切り替え、『JNNニュースコープ』司会の田畑光永キャスターを、メイン・キャスターとして『JNN報道特別番組』を朝まで伝える終夜放送とした。
フジテレビ
フジテレビはニュース速報を流した直後の午後7時半頃からレギュラー番組をすべて休止し、露木茂アナウンサーをメインにした「FNN報道特別番組」を約10時間に渡り放送している。翌朝には中継に必要な機材を現場に運び上げ、FNNニュースレポート11:30において生存者救出の映像を事故現場から唯一生中継した(他局は生中継機材が間に合わず、録画取材となった)。
テレビ朝日
テレビ朝日の第一報は『月曜スペシャル90』内で午後7時半頃流した「ニュース速報」だった、午後9時から予定していた番組を変更し「ANN報道特別番組」に変更された。
毎日放送ラジオ
大阪のラジオ局・毎日放送ラジオは、月曜22時からのレギュラー番組「MBSヤングタウン」のほとんどを関連のニュースに充てた。この日のパーソナリティー・明石家さんまも123便に乗って、スタジオに入る予定だったが、急遽搭乗便を一本早め難を逃れた。このため、明石家さんま自身のショックも大きく、ニュース以外の部分では音楽が流された。
あの日は快晴の蒸し暑い日だった。会社帰りに先輩と飲み屋でニュースを見た。
参加したのは、107人が死亡した05年4月のJR宝塚線脱線事故の遺族、藤崎光子さん(67)=大阪市城東区=と石橋位(たか)子さん(62)=大阪府阪南市、11人が犠牲となった01年7月の明石歩道橋事故の遺族、下村誠治さん(49)=神戸市垂水区=と三木清さん(38)=兵庫県姫路市。
両事故の遺族は、日航機事故の遺族でつくる「8・12連絡会」事務局長の美谷島邦子さん(60)と、重大事故の再発防止について話し合うシンポジウムなどを通じ交流を深めてきた。今回、「安全を祈る人の『聖地』で、事故防止の声を大きくするため遺族同士交流しよう」と、灯籠流しへの参加を決めた。
灯籠流しに先立ち、参加者は上野村役場前の河川敷で、日航機事故に加えJR宝塚線事故、明石歩道橋事故などの犠牲者の霊に黙祷(もくとう)した。大小計約300個の灯籠に点灯し、日航機が墜落したとされる午後6時56分、川に流した。
「すべての人のいのちが大切にされる社会をつくりたい」と灯籠に記した藤崎さんは「亡くなった人の命を無駄にしない社会を作るため、遺族の連帯を強めたい」。下村さんは「事故の形は違っても原因が知りたいという思いは同じ。その問いに答える制度を作るための活動を続ける力をもらった」と話した。
4人は12日、日航機事故遺族らとともに御巣鷹山への慰霊登山をする予定。
(朝日新聞紙面より引用)
事故当日のJAL123便
当日123便は18時00分羽田発、羽田を南西に進んだ後、伊豆大島で西に巡航、串本上空で北西に進み、18時56分大阪(伊丹)着のフライトプランであった。使用機体はボーイング747のJA8119であった。 JA8119は就航以来約18800回の飛行を行い、同日は503便と504便で羽田~札幌、363便と366便で羽田~福岡を往復する定期便として飛行し、123便で5回目。伊丹到着後、130便として伊丹発羽田着の最終便を運航する予定であった。また、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。
乗務員は、高浜雅己機長(49歳)[6]、佐々木祐副操縦士(39歳)、福田博航空機関士(46歳)の男性3人のコックピットクルーと、波多野純チーフパーサー(39歳)を筆頭とする客室乗務員(女性11人)12人の計15人、乗客は509人。コックピットでは、機長昇格訓練を受けていた副操縦士が機長席に座り操縦、クルーへの指示を担当。機長は副操縦士席で副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当していた。当日、航空機関士は前2回JA8119に、副操縦士は別の機にそれぞれ乗務し、機長は当日最初のフライトであった。
18時04分、乗員乗客524人を乗せた123便は、定刻をやや遅れて[7]羽田空港18番スポットを離れ、18時12分、当時の滑走路15から離陸した。
異常事態発生
18時24分(離陸から12分後)、相模湾上空を巡航高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ft(7170m)を通過したところで異常事態が発生する。突然の衝撃音と共に123便の垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、その際ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不可能になってしまう[8]。フゴイドやダッチロール[9]を起こした機体は迷走するとともに上昇、降下を繰り返すものの、クルーの操縦により17分間は20000ft(6000m)以上で飛行を続ける。18時40分頃、空気抵抗を利用する降下手段としてランディング・ギア(降着装置)を降ろした後、富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22000ftから6000ftへと一気に15400ft (4600m) も降下する。その後、機体は羽田方面に向かうものの埼玉上空で左へ旋回、群馬県南西部の山岳地帯へと向かい出す。
キャビン内の状況
機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に酸素マスクが落下し、プリレコーデット・アナウンス[10]が流れる。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。また一部座席では着水に備え、救命胴衣の着用なども行われた。男性チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。なお、機内は異常発生直後から墜落まで、さほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動している。その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全姿勢(前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる)」をとって、衝撃に備えることになる。乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機内の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。これらの遺書は、後に事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。
なお、客室乗務員は終始乗客のサポートをしていたと生存者が語っており、機体後部に取り付けられていたボイスレコーダ(CVR)には幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予想してか「予告無しで着陸する場合もある」との放送、「地上と交信できている」との放送が墜落直前まで記録されている。また、不時着後に備えて乗客に出す指示をまとめた、客室乗務員の一人によるメモや、墜落現場から発見されたカメラで撮影された、キャビン内の写真が見つかっている。
地上との交信
123便は18時24分47秒に緊急救難信号「スコーク77(7700)」を発信、信号は東京航空交通管制部(ACC)に傍受される。直後に機長が無線でACCに対して緊急事態発生のため羽田へ戻りたいと告げ、ACCはそれを了承した。123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。ACCは右左どちらへの旋回をするか尋ねると、機長は右旋回を希望した。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。
27分 ACCが123便に緊急事態を宣言するか確認し123便から宣言が出された。その後123便を羽田へ誘導し続ける。この時ACCは続いて123便に対してどのような緊急事態か尋ねたが応答は無かった。また、ACCは日航本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。
28分 ACCは123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。ACCはこの時初めて123便が操縦不能に陥っている事を知る。
31分 ACCは羽田より近い名古屋に緊急着陸を提案するが123便は羽田を希望する。通常航空機と地上との交信は英語にて行われているが、123便のパイロットの負担を考え、日本語の使用を許可し、以後ACCと123便は一部日本語による交信が行われている。
33分頃 日航はカンパニーラジオ(社内無線)で123便に交信を求め、35分、123便からドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下しているので後ほど呼び出すまで無線をモニターするよう求められ、日航は了承した。
40分 ACCは123便と他機との交信を分けるため、123便専用の周波数が準備され、123便にその周波数に変えるよう求めたが、返答は無かった。
42分 123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるよう求めたが、一部航空機は通常周波数で交信を続けたため、ACCは交信をする機に個別で指示し続けた。
45分 無線のやり取りを傍受していた在日アメリカ軍の横田基地(RAPCON)が123便の支援に乗り出し、123便にアメリカ軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは操縦不能との声が返ってきた。ACCが東京(羽田)アプローチ(APP)と交信するかと123便に提案するが、123便は拒んだ。
47分 123便は千葉の木更津へレーダー誘導するよう求め、ACCは真東へ進むよう指示し、操縦可能かと質問すると、123便から「アンコントローラブルです」と返答がきた。その後、APPの周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。
48分 無言で123便から機長の荒い呼吸音が記録されている。
49分 日航がカンパニーラジオ(社内専用無線)で3分間呼び出しを行ったが応答は無かった。
53分 ACCが123便を呼び出した。123便から「アンコントロール」と無線が入ってくる。ACCとRAPCONが返答、RAPCONは、横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。ACCもAPPの周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。
54分 日航も呼び出しを行ったが応答は無かった。123便から現在地を尋ねられ、APPが羽田から55マイル(100km)北西で、熊谷から25マイル(45km)西と告げる。
55分 APPから羽田と横田が緊急着陸準備を行っておりいつでも最優先で着陸できると知らせ、航空機関士が「はい了解しました」と返答する。この言葉が123便からの最後の交信となった。その直後にAPPが123便に対し、今後の意向を尋ねたが応答は無かった。その後も56分前までAPPとRAPCONが123便に対して呼び出しを行ったが応答は無いままだった。
57分 RAPCONが123便に対し、「貴機は横田の北西35マイル(65km)地点におり、横田基地に最優先で着陸できる」と呼びかけ、ACCも123便に対して横田基地に周波数を変更するよう求めたが、この時、既に123便は墜落していた。
コックピットと機体の状況
衝撃音がした直後、機長は航空管制官への無線交信で羽田空港への引き返しを要求している。
その際、管制官の「右と左のどちらへ旋回するか?」という問いに対し機長は、羽田空港へは遠回りになる『右旋回』を要求している。これは山岳地帯へ迷走飛行した一因であり、現在も謎として残っている判断であるが、副操縦士が左側の機長席に座っていたことで機長にとって視界が良い右旋回を選択したのではないかと推測されている。
異常発生直後から油圧操作の効果がほとんど無いにもかかわらず繰り返し操縦桿での操舵を試みるなど、クルーは操縦不能になった理由を最期まで把握できていなかった模様である(操縦席から尾翼部分は目視できないため、把握できなかったのは致し方ない)。また、油圧系統全滅を認識しながらもクルーは油圧での操縦を試みている。
コックピットボイスレコーダー(CVR)の解析によると、異常発生から墜落まで、操作不能状態の操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路の巡視・計器類などの監視・パネルの操作・管制官との交信・クルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整・緊急時の電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信、さらに副操縦士の補助は航空機関士がしていたと推測されている。
CVRには18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残っている。はじめに残っていた音声は「最初の衝撃音」直前の客室とコックピットとのやり取りだった。しかし、このやり取りの最中、冷静沈着な客室乗務員の声とは裏腹に、コクピット内の副操縦士の声は、正常な状態とはいえない、異常ともとれる緊迫した声であったと分析する説があった。この緊迫説を基に、異常発生以前からパイロット達は何らかの異変を察知していたとする説もある。また、18時21分頃、羽田のJAL社との交信では冷静で正常な音声だったと分析されており、もしこの説が事実だとした場合、18時21分から18時24分以前の僅か3分足らずでパイロットの冷静さを奪う程の機体の重大な異変が起きたという事になる。しかし、実際には直接客室乗務員と会話をしていた機関士の声が、口角の上がった正常な話し方をしていることから、コックピット内の不明瞭な音声でない、インターホンを通じて録音された音の鮮明なボイスレコーダーのチャンネルの音声が公開された今、この説を重要視する専門家は皆無に等しい。
18時24分35秒頃、CVRに何らかの衝撃音[11]が録音されている(衝撃音直後に機長は「なんか爆発したぞ」と言っている)。直後にオートパイロットが解除され機体(エンジン、ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、着陸ギア等に異常がなかったが、航空機関士が「ハイドロプレッシャー(油圧)をみませんか」と提案する。25分、機長はスコーク77を発信し、ACCに羽田へ引き返すことを要求した。無線交信の直後、機長が副操縦士に対し「バンクとるなそんなに」と怒鳴る声が記録されている。しかし、副操縦士は「(バンクが)戻らない」と返答した。その際、航空機関士がハイドロが異常に低下している事に気づいている。27分、異常発生から僅か3分足らずで圧力の喪失を示すと思われる「ハイドロプレッシャーオールロス」という航空機関士の音声が記録されている。
同じ頃客室の気圧が減少している事を示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールが出来ない機体はフゴイド運動やダッチロールを繰り返し、降下、上昇を反覆した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「上げろ」と言う言葉が記録されている。
31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室のドアが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(ディセンド)と同時に酸素マスク着用を提案[12]、35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している。
37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1000mあまりの上昇や降下を繰り返すなど、きわめて不安定な飛行を続けた。これを回避するために38分頃着陸ギアを降ろそうとするが油圧喪失のため降りなかった。40分、パイロットはギアの自重により着陸ギアを出すバックアップシステムを用いて着陸ギアを降ろした。この操作によって機体は右に大きく旋回しながら降下し、同時に横揺れ角の振幅が縮小して多少安定した。
46分、機長の「これは駄目かも分からんね」との発言が記録されている。47分頃から彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。この頃から山岳地帯へと迷走して行ったと思われる。この時航空機関士が操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ます声が残っている。48分頃には右、左との方向転換が繰り返し指示されている。その会話の中、機長が操縦している副操縦士に対して「山にぶつかるぞ」と緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6000ft(1800m)前後をさまよっていた。この間、航空機関士が副操縦士の補助をしていた様子である。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答、機長は「じゃあ・・・・[14]できる?」と聞くが副操縦士は「ききません」と返答する。
49分頃、機首が39度に上がり、速度は108kt(200km/h)まで落ちて失速警報装置が作動した。この頃から機体の安定感が崩れ何度も機首の上げ下げを繰り返し、そのたびにエンジン出力(パワー)の最大を表す「マックパワー」と指示する声が残っている。50分、困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と励ます音声が残っている。機長が「頭下げろ、がんばれ」との励ましに対して副操縦士は「今舵いっぱいです」と叫んでいる。この頃速度が頻繁に変化し、不安定な飛行が続いていたためか、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。51分、依然続くフゴイド運動を抑えるため、電動でフラップが出され、53分頃から機体が安定しだした。
54分、クルーは現在地を見失い、羽田に現在地を尋ね埼玉県熊谷市から25マイル西の地点であると告げられる。その直後、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180kt(330km/h)まで落ちた。55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね、副操縦士は「はいフラップー10(今10度下がっているという意味)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。
しかし55分12秒、フラップを下げた途端、機体は右にそれながら急降下を始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップを止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「あーっ」という叫び声が記録されている。50秒頃、副操縦士が「フラップアップフラップアップ」と連呼し、恐らく航空機関士がすぐさまフラップを引き上げたが更に降下率が上がった。この頃高度は10000ft(3000m)を切っていた。56分00秒頃、機長がエンジン出力とフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「あげてます」と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、横揺れ角も最大80度を超えた。機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と叫び続けた。
墜落
クルーの努力も空しく123便は降下し続け18時56分14秒、対地接近警報装置が作動。同17秒頃、機体はわずかに上昇しだしたが、18時56分23秒、機体後部と右主翼が樹木と接触、反動で一度は浮上したものの、機体は大きく機首を下げ右側に傾き、26秒に右主翼が地面をえぐり、機体の強度が失われて破壊が始まり、垂直・水平尾翼、右主翼が脱落。28秒、機体後部が離脱、その後機体全体の破壊が始まった。機体は機首を下げながら右側に回転して行き、18時56分30秒、高天原山の斜面に前のめりに反転するような形で墜落衝突した。墜落前、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は346kt (640km/h)に達していた。18時56分28秒まで録音され続けていたコックピットボイスレコーダーにも23秒と26秒に衝撃音が残されている。また、一度目の衝撃音の直前には、機長の「もーうだめだ」(「あっーだめだ」ともとれる)との叫び声が記録されている。
衝撃で機体前部から主翼付近の客室は完全に圧壊し炎上、両主翼も離断し炎上。客室後部と尾翼は勢い余って山の稜線を超えて斜面を滑落していった。機体の大半は大破し、原型を留めていなかった。しかし、客室後部はそれ以外の機体部位と比較して衝撃の度合いが軽く、また炎上を免れたために、生還した人物の証言によれば墜落当初は生存者が多数いたとの事であるが、墜落現場発見までに時間がかかり朝までにほとんどの人が息絶えたという。結局、この客室後部から奇跡的に4名が生還した。
報道
NHK
NHK総合テレビにおいては午後7時の定時ニュースの終了直前(午後7時26分)に、松平定知アナウンサーから「羽田の空港事務所に入った連絡によると、午後6時に羽田を出発した大阪行き日航ジャンボ機の機影がレーダーから消えた」と短い原稿読み上げがあった。ミニ番組「テレマップ」を挟み、午後7時30分からはお盆の夏季編成としてNHK特集『人間のこえ・日独米ソ・兵士たちの遺稿』が予定通り始まったが、午後7時35分頃には「急遽番組を中止します」のアナウンスとともに画面はニューススタジオに切り替わった。このとき、専門家として『マッハの恐怖』などの航空事故解析の著書に実績のある柳田邦男(元NHK社会部記者でもある)が解説に入ったが、当日の午後9時40分からは柳田原作のドラマ『マリコ』が放送される予定で、ドラマの作者が航空専門家という偶然があった。ただし、事故発生当時、本人は自宅にいて、当時NC9(ニュースセンター9時)のキャスターだった木村太郎氏から出演要請により、多摩の自宅からタクシーで入局した。局に向かうタクシーの中で、テレビの1-3チャンネルが受信できる携帯ラジオを使ってNHKテレビのニュースを聴きながら事故の全貌を分析したという。(本人著:「事実の考え方」新潮社より)。この後、日航本社、運輸省、帝国ホテル(乗客家族の対応拠点)、大阪空港、当初墜落地点とされた長野県の長野放送局や長野県警などからの中継を交え、終夜放送となった。
NHKテレビドラマ『クライマーズ・ハイ』のワンシーンに、テレビ内映像として松平定知アナウンサーが速報で第一報を伝えるシーン、大阪空港日航対策室からの報告、NHK長野放送局からの報告、NHK社会部からの最新情報を伝える当時の映像が使われた。
日本テレビ
日本テレビの第一報はバラエティー番組『三宅裕司の大きなお世話だ!』(当時:毎週月曜午後7時30分)内で午後7時45分に流した「ニュース速報」だった。その後に放送されていた日本テレビの「ザ・トップテン」(当時:毎週月曜午後8時)では番組冒頭に報道センターから小林完吾キャスターが速報で報道、その後時折中断して、繰り返し日本航空123便が行方不明になったこと(その時点では墜落は未確定)を報道していた。午後9時から予定していた番組を変更し『NNN報道スペシャル』の報道特番に変更され、久保晴生キャスターがメインキャスターで伝え、専門家として航空評論家・中村浩美氏が解説した。その後午後11時からの『きょうの出来事』も大幅に内容を変更し報道特番態勢になり、後続番組『11PM』を休止し、小林完吾キャスターが『きょうの出来事』から引き続き『NNN報道特別番組』を朝まで伝える終夜放送とした。
TBS
TBSの第一報は『クイズ100人に聞きました』内で午後7時半頃流した「ニュース速報」だった、TBSは通常通りの放送態勢だったが、午後8時から『水戸黄門』、午後9時から『月曜ロードショー』映画「東京裁判・後編」を放送していたが、各番組内で逐一「ニュース速報」を流し続けた。TBSは映画「東京裁判・後編」を最後まで放送した後、日付が変わった13日午前0時02分からの『JNNニュースデスク』は内容を大幅変更して放送し、 午前0時17分からの『JNNスポーツデスク』の通常通りの放送を経て、 午前0時32分から予定していた深夜番組を休止し、「JNN報道特別番組」に切り替え、『JNNニュースコープ』司会の田畑光永キャスターを、メイン・キャスターとして『JNN報道特別番組』を朝まで伝える終夜放送とした。
フジテレビ
フジテレビはニュース速報を流した直後の午後7時半頃からレギュラー番組をすべて休止し、露木茂アナウンサーをメインにした「FNN報道特別番組」を約10時間に渡り放送している。翌朝には中継に必要な機材を現場に運び上げ、FNNニュースレポート11:30において生存者救出の映像を事故現場から唯一生中継した(他局は生中継機材が間に合わず、録画取材となった)。
テレビ朝日
テレビ朝日の第一報は『月曜スペシャル90』内で午後7時半頃流した「ニュース速報」だった、午後9時から予定していた番組を変更し「ANN報道特別番組」に変更された。
毎日放送ラジオ
大阪のラジオ局・毎日放送ラジオは、月曜22時からのレギュラー番組「MBSヤングタウン」のほとんどを関連のニュースに充てた。この日のパーソナリティー・明石家さんまも123便に乗って、スタジオに入る予定だったが、急遽搭乗便を一本早め難を逃れた。このため、明石家さんま自身のショックも大きく、ニュース以外の部分では音楽が流された。
あの日は快晴の蒸し暑い日だった。会社帰りに先輩と飲み屋でニュースを見た。
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出版社/著者からの内容紹介
働くあなたを応援する、共感必至のコミックエッセイ!!
大不況に翻弄された就職活動を乗り越えて、晴れて社会人の仲間入り! ヒヤヒヤの研修、ドキドキの配属、地獄の長時間通勤を経て、一人前になったかと思ったら強制異動!? やる気をなくしてすっかりマンネリ、新天地を求めて転職を決意、退社の意志を伝えたら社長にクビを言い渡され……。働くとは、かくも厳しきものなり!
内容(「BOOK」データベースより)
大不況に翻弄された就職活動をくぐり抜け、晴れて社会人の仲間入り!ヒヤヒヤの研修、ドキドキの配属、地獄の長時間通勤を経て、一人前になったかと思ったら強制異動!?やる気をなくしてすっかりマンネリ、新天地を求めて転職を決意、退社の意志を伝えたら社長にクビを言い渡され…。働くあなたを応援する、共感必至のコミックエッセイ。
内容(「MARC」データベースより)
大不況に翻弄された就職活動をくぐり抜け、晴れて社会人の仲間入り! ひやひやの研修、地獄の長時間通勤を経て、一人前になったかと思ったら強制異動!? 働くとは、かくも厳しきものなり! 共感必至のコミックエッセイ。
著者について
もとは企業用システムの設計・開発、おまけに営業をなりわいとするなんでもありなプログラマー。自身のホームページにて連載していた4コママンガをきっかけとして、書籍やイラストや執筆を手がけることとなり、2003年に『SEのフシギな生態』『SEのフシギな職場』を上梓する。2册ともにSEの苦労を面白おかしく描いた傑作として「失敗の原因や対処法、教訓もきちんと提示している」「SEだけでなく、社会人全般に当てはまる教訓も多い」(『日経コンピュータ』)などと各紙誌にて絶賛される。
「サラリーマンは・・・気楽な稼業ときたもんだ」と植木等が歌った時代とは大違い。今、入社して来る新卒社員はシンドイやろなぁ~とつくづく思う。僕の頃のテレビ局「制作部」は仕事さえ、ちゃんとしていれば、昼間からビールを飲もうと、早めに会社を抜け出し麻雀に行こうと、お咎めなしの世界だった。CGもFAXも携帯電話もパソコンもテレフォンカードさえ無かったあの時代に入社できたのは幸運だと思う。




















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内容紹介
いつまで他人の脳の中で生きる奴隷なの?
自分が見ていると思っている夢も、正しいと思い込んでいる生き方も、すべて他人によってあなたの内部に書き込まれたニセモノだ。一瞬で自分を変える実践法!
カバーの折り返し
私たち一人ひとりはまさにそれぞれの縁起の中心にいるのです。
人間一人ひとりの認知のない宇宙は存在し得ません。
ですから当然の帰結として、一人ひとりの一瞬の価値と全宇宙の価値はまったく
同じということが言えます。
人間の価値に順位はないということです。
やるべきことは簡単です。
システムSの論理の系の外側に出ればいいのです。
そのための方法を本書では詳細に解説したつもりです。
抜粋
ゲーデルの不完全性定理でわかったことは、我々はもともと自由であ
るということです。
ただ、その自由はランダム性としての自由です。
それが我々みずから選択した自由であるためには、系の抽象度の階段をひとつ上
がる必要があります。
そうすると下の系からはランダムに見えることが、上の系では整合的な因果にな
るというわけです。
となると逆に、第三者にひとつ上の整合的な因果を仕掛けられている可能性も出
てきます。
自由な選択をしているつもりが仕掛けられていた、というわけです。
だからこそ、誰よりも抽象度を上げられて、初めて本質的に自由になれるので
す。
何年かに一度でいいので、理性を超越する抽象度まで上がってほしいのです。
アインシュタインが相対性理論を発見し、モーツァルトやピカソが芸術空間を臨
場感を持って見いだした、そういう抽象度です。
それが「自由意思」の抽象度です。
私たちにそんなことが可能なのかと問われれば、私は「もちろん」と答えます。
生物はそうやって自由意思を持ってカオスの物理空間からひとつ上の抽象空間に
進化してきたのです。
本当に「自由」になることって、何?そんなことを考えてみたい。



















