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ペルー〜ボリビア

2020年05月11日 | 旅・外国
二回目の南米は、ペルー~ボリビア。成田からシアトルを経由して、ペルーの首都リマに入る。リマは治安がとても悪いと聞いていたので、緊張して「リマ国際空港」に到着。日本にいる時からひいていた風邪が悪化していて、最悪の状態。熱があるかもしれない。



 

重たい荷物をカートに載せて、ゲートから出て来ると一人のおじさんに声をかけられた。旅行代理店の人の様だ。リマ市内まで無料で車に乗せて連れて行ってやるとの事。心身共に疲れ果てていた私は荷物をおじさんに任せた。車中、何の予約もしていない事、今回の旅でどこに行きたいかという事を話すと、俺がすべてコーディネートしてあげるとの提案。そして、フジモリ大統領候補の選挙があるので、数日後からペルーの公共交通機関がすべて止まってしまう事を教えてくれた。

リマの中心地、大統領府のある広場の一角、おじさんのオフィスに到着。ホテルと交通、ルートに関して、話し合い、ルートを決める。リマから飛行機でクスコに飛び、クスコを観光。翌朝、鉄道でマチュピチュへ移動。マチュピチュ観光後、クスコへ戻り、鉄道でボリビアの首都ラパスへ。ボリビアのチチカカ湖でウロス島を観光。その後、バスに乗り国境を越え、ペルーへ。首都リマへ戻る。

今度はリマから南に向かって5時間。ナスカの地上絵を見に行く。セスナ機に乗り、地上絵を見たら、リマに帰って来るという旅程である。もちろん、添乗員が付く訳ではなく、私がクーポンの束を渡され、それを1枚1枚使っていく訳である。

こんなに体調の悪い時におじさんと会えた事を感謝。

 

一泊目は、大統領府の前のホテルを取ってくれたので、チェックイン。

広いベランダがあり、そこから町の様子がはっきり見えるナイスな部屋。

体調を整える為に早めに就寝。

翌朝早めに起き、準備をする。ここで南米のトイレ事情を少し。

南米はトイレの水の勢いのせいか、流す紙のせいか分からないが「お尻を拭いた紙は流さず、トイレについている屑籠に捨てる」のだ。基本、空気が乾燥しているから臭わない。

リマ観光。まずは大統領府の下にある「カタコンベ(たくさんの骸骨が祀られた地下墓地)」に。実は私、小学生の頃、週刊少年マガジンの「かたこんべ特集」見て、3日間高熱を出して寝込んだ事があるにもかかわらず、骸骨やミイラに関心があるのである。

街には「血圧屋」と呼ばれる「血圧を測る事で生計を立てている人たち」もいた。

リマは治安が悪いとガイドブックに書いてあったが、歩いたのが昼間だったせいか、それほど怖いという印象は無かった。

ペルー日系人会館(のちに立てこもり事件で有名になる建物)を見終わって、トイレに行ったら、トイレットペーパーが無い。会館の向かいにスーパーがあったので、買おうと思うがお金が無い。ATMを探し、トイレットペーパーを買い、トイレに戻った。よくよく見ると便座が無かった。盗まれる事があるので、イタリアなどでも飲食店が便座を外しているケースは多い。

仕方がないので、腰を少し浮かせて、用を足した。足がつりそうになった。

翌朝、リマを出て、飛行機でクスコへと飛ぶ。前に見えるは雪をかぶったアンデス山脈。飛行機には「高山病」対策の為、一人一人に「酸素ボンベ」が備え付けられている。

 

クスコのホテルにチェックイン。インカ・コーラ(プラッシーの様な黄色のコーラ)とコカ茶(覚醒剤の原料となるコカの葉から抽出されたお茶。高地で働くインディアが飲み、高山病の予防にも効果がある)を飲む。

クスコを散歩。アルパカの毛で編んだセーターをお土産に買う。

翌日、鉄道で4時間、マチュピチュへ向かった。クスコからマチュピチュへは標高が下がっていくので、息が段々楽になっていくのを実感した。

巨大瀑布とかアマゾン川とか自然の大きさが好きな私にとって、マチュピチュは期待していたほどではなかった。ただ、何百年もジャングルの中で人知れず眠っていたマチュピチュを初めて発見した人の驚きはいかほどだったのか、そんな事に思いを馳せた。

 

クスコへ戻り、翌朝鉄道に乗ってボリビアの首都ラパスを目指す。外国人は1両だけ連結されている車両に乗る事になっていた。所要時間は7時間位か。

途中の駅で車窓越しに地元の人が鶏の丸焼きを駅弁として売る様に持って来る。毛糸でできたインディオの人形を売っている少女もいる。1日数本しか通らない鉄道によって生計を立てている彼女たちの生活はどのようなものか、旅人は想像するしかなすすべがないのだ。

列車からバスに乗り換えて、ボリビアの「チチカカ湖」の「ウロス島」へ。ここでは湖に浮かんだ「藁の島」を観光。島にはインディアンが暮らしていて、火を使って炊事している。

再びバスに乗り、先を急ぐ。2~3日中にペルーのフジモリ大統領の選挙があり、ペルーの交通機関が止まるという事らしい。その余波がボリビアの交通機関にも及ぶという。

休憩で止まった町の公衆トイレ、男性が用を足すところは限りなく高かった。

最初は手を洗うところと思った位だ。背の高い私でもちんちんをやっと載せられるほどだ。ボリビア人の足の長さを思う。

 

標高4000メートル、富士山の山頂より高いところに位置するボリビアの首都ラパス。すり鉢状になっていて、真ん中が凹んでいる。すり鉢の縁には貧困層が、すり鉢の一番凹んだ中心には金持ちが住んでいる。これは空気が濃いか薄いで決まって来るのである。

五分も歩くと私は息苦しくなり、座り込まなければいけないほどだった。ちょうど私が行った時、ラパス市民マラソン大会をやっており、私がしんどくて座り込んでいる横をランナー達が軽快に走り抜けて行った。

 

ラパスには「遊園地」があり、ミニ・ジェットコースターに乗ってから、町をぶらり。坂を金持ちゾーンへと下りながら、「レストラン東京」を探す。「寿司FUJI」という看板を見つけ、店内へ。店主に銃を突きつけられる。ボリビアは中国からの密入国者が増え、治安が悪くなっているとの事。それゆえ、鮨を握るまな板とカウンターの間に銃を置き、いつ強盗が入っても大丈夫な様にしているとの事。日本語で事情を説明したら、温かく迎え入れてくれた。店主は元々大阪・江坂の寿司屋にいたとの事で、かつて吹田市に住んでいた私としては親近感が湧く。

鮨を肴にビールを飲んでいると、40代のおじさんとボリビア人らしい女性が入って来て、店主も入れて四人で盛り上がる。おじさんはボリビアにボーリング(工事用の穴を掘る技術)を教えに来ているという事だった。

私が「フォルクローレ(南米の民族音楽)」を聴きに行きたいというとおじさんが連れて行ってくれるという。女性は彼の愛人らしい。

夜の10:30、おじさんオススメの劇場で三人待ち合わせ。ショーは「タンゴ」あり「フラメンコ」あり「民族音楽の演奏(「コンドルは飛んで行く」など)」ありで盛り上がる。最後に出て来た「フォルクローレのバンド」が開口一番言ったのは、スペイン語で「今、この会場に二人の日本人(ハポーネ)が来ている。その二人の日本人に捧げます」。

演奏し始めたのは、「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」。私の心に深く染み入った一曲であった。南米の夜は更けていき、人の出会いは貴重だと思った。

 

翌朝、ラパスから飛行機でペルーの首都リマへ。リマのホテルへチェックインし、

市内観光。と言っても、「地球の歩き方」を見て、ひたすら歩くだけ。

 

翌朝、旅行社の車がホテルの前に迎えに来ている。今日はナスカの地上絵を見に行く。私の横には知らないおばさん。添乗員さんに誰?って聞くと、添乗員の叔母さんで、ナスカに行く途中の町まで行くので同乗しているとの事。

少し走ったところで、食堂に立ち寄る。叔母さんの朝食タイム。私はホテルで食べて来たので、トイレの場所を聞き、食堂の裏手のトイレへ。

6畳位ある部屋の中央に便座があったろうとは想像ができる。しかし、何十万という人々がウンコをし続けて、三メートルの高さのピラミッド状の山になっていた。乾燥地帯なので、臭いは全くせず、それ故それだけの人数の人々が用を足したのだろうが、さすがに日本人の私は用を足す事は出来ず、ナスカの手前、空港のあるイカの町まで我慢する事にした。イカのホテルのトイレに行ったら、またしても「便座」が無く、中腰で用を足していたら、足が吊りそうになった。

 

ナスカの地上絵観光飛行の飛行機はイカの空港から出発する。欧米人のおばさんと二人、セスナ機に乗り込む。一つの地上絵につき、セスナ機は右回転と左回転を繰り返す。右座席のおばさんと左座席の私に地上絵をよく見てもらう為だ。

古代人が飛行機も無い時代に作った「ナスカの地上絵」。どういう風に作ったのか、古代ロマンに思いを馳せつつ、セスナ機を降りて、首都ペルーへ5時間の帰路についた私である。

 

事件はそんな時起きた。車のエンジンが砂漠地帯のど真ん中で動かなくなったのだ。車から降りて、私と添乗員さんで車を押す。ドライバーが何度もエンジンを駆ける様、試みる。1時間位、やっていただろうか? 永遠に続く砂漠の中、ガソリンスタンドなど全く見えない。

車を押している私たちに容赦なく、太陽の光が降り注ぐ。湿度が低いとはいえ、汗ばんできた。

「デデディィィ・・・ドドローン」

奇跡的にエンジンがかかった。

これでリマへ帰れる。ホントにホッとした。

 

ペルー帰国前日、タクシーで「黄金博物館」へ。リマのタクシーにはメーターが付いていないので、値段交渉が必要。旅行者に「黄金博物館」まで幾らかかるのか分かるはずもなく、交通整理をしていた警官に値段交渉をしてもらう。金額が決まったら、それを紙に書き、運転手に見せて同意を取った上でタクシーへ乗り込む。

 

「黄金博物館」には、「インカ時代の母子のミイラ」が展示されていた。

母子のミイラには物語がある。写真を撮った。ミイラに興味があるのである。

ノドが渇いたので、インカコーラを買って飲む。プラッシーの様な色。名前に「インカ」が付くので、私は「ミイラの粉末」が入っている様なイメージがしていたが、実際は「普通に美味しいコーラ」だった。


「セビーチェ」という食べ物がある。ペルーの人たちが好んで食べる「魚介類のサラダ」である。味はビール(スペイン語ではセルベッサ)に合う。島国の日本人好みだ。

この「セビーチェ」の影響が帰国した私に襲いかかるのだ。その話は後ほど。

 

ペルー最終日は地元旅行会社に行って支払い。全行程で28万円位か。

こちらの金額に換算すると巨額になる。

しかし、風邪で最悪の体調だった中、助けてくれた恩義もある。ほとんど値切らずに支払う事にした。

 

帰国し、会社で健康診断を受ける。

2~3日して、会社に出勤する途中で「身体がだるくて、階段を上がれない状況」になった。何とかして会社に到着すると産業医の先生から電話があり、すぐに入院しなさいとの事。血液検査のγ-GTPの数値が1600有り、A型肝炎にかかっているそうだ。入院して、数日経つと黄疸が表れた。

健診がいいタイミングであったと今にしてみれば思う。

そう、「セビーチェに使われている野菜から感染した可能性」が否めない。

入院は三週間におよび毎日二回の点滴で肝臓の数値を下げ、退院する事ができた。

(1990年)




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