前回の話の下書きをしていて、私はやっぱり藤原不比等(ふじわらふひと)に確かめてみようと一番の疑問を聞いていました。

私は、次の日にキクリヒメの言っていた紐を買いに行きました。

(藤原)不比等だ。
不比等様のお父様はどなただったのですか?
私の父は、帝(みかど)だったよ。
天智天皇様は、志度にいらしたのですか?
帝は志度に来ていたが、それは隠されていたことだ。
志度にいたのは、私ということになっているだろう。
はい。
私は志度に生まれて、母が死んでしまったので、都に連れていかれたのだ。
私は、だから鎌足(かまたり)の子供として生きた。
鎌足の子供は男は皆、帝の子だよ。
当時はそういうことが、普通だったからな。
海女のお母様は帝だと知っていたのですか?
母は、帝とは知らなかったと思う。
帝は、母には「不比等」と名乗っていてからね。
私は、都に行った時に「不比等」と名付けられたのだ。
房前(ふささき)は、私の話を聞いて志度に行ったのだよ。
灯籠は、私も建てたが房前も建てた。
振り子はしばらくグルグル回っていました。
ありがとう。
わかってくれる人がいたのだな。
私は今は心穏やかにしているよ。
会いたかった母に会えたからな。
母も喜んでくれたよ。
私が作った書物は隠していることが沢山あるが、魂は覚えているということだな。
藤原不比等の没後1300年の今年に、心穏やかになったのなら、良かったと思いました。
蘇我入鹿が暗殺された大化の改新の話で暗殺した側は中大兄(なかおおえの)皇子と中臣鎌子となっています。
中大兄皇子は、後の天智天皇ですね。
そして、中臣(なかとみ)鎌子が鎌足になり、天智天皇の時代に政治の中心にいた鎌足は亡くなった次の日に藤原姓を賜ったということで、本人は藤原を名乗っていないのです。
だから、実質は藤原不比等が藤原氏の始祖になるということでしょうか。
藤原不比等の子供達の中でパワーがあったのは北家の房前だったようですが、藤原不比等の子供達は、同じ年に天然痘で亡くなっています。
🌟藤原四兄弟(ふじわらしきょうだい、ふじわらよんきょうだい)は、奈良時代前半の天平年間に政権を握った藤原不比等の4人の息子を指す歴史用語。
藤原四子(ふじわらしし、ふじわらよんし)などとも呼ばれる。
- 藤原武智麻呂(680年 - 737年)(藤原南家開祖)
- 藤原房前(681年 - 737年)(藤原北家開祖)
- 藤原宇合(694年 - 737年)(藤原式家開祖)
- 藤原麻呂(695年 - 737年)(藤原京家開祖)
武智麻呂・房前・宇合は同母兄弟、麻呂は3人の異母弟である。
今もコロナウィルスで大変なことになっていますが、昔から人間社会は疫病との戦いになっているということですね。
この話を先にしておかないと、今回の志度の旅の意味がよくわからないかと思ったのです。
何故ならば、この話とは別の話が平行して動いていたからです。
IさんやK会長にとっては、そちらの話がメインの物語で、混ざり合いながらの旅となりました。
さて、四国へは7月16日から出発を決めて宿の手配などはIさんにお任せしておりましたが、Iさんは仕事もしながらの旅となっていました。
もう既に関西に行っていた彼が、いろいろ感じるだけに、緊張感が半端なく、前々日からの話になります。
Iさんから📩がきました。
紐が欲しいのだけど、ねーさん買えるようなとこあるかな?
無理しなくて良いので、
大きな手芸屋さんとかがあれば、
1cm程度の幅の布か、
太い紐で、
赤・紫・緑・白・黄
それぞれ20センチで欲しいかんじ。
キクリヒメから、何か伝えられていたようで、普通は動かないキクリヒメから言われているということと、Iさんが信頼している九州の神職のMさんから、何も言っていないのに、四国に行くのがわかったらしく、連絡があったり、仕事も大変そうな様子でした。
📩がきた時は、私は出掛けていたので、家に帰ってきてから、キクリヒメを呼んでみました。
キクリヒメです。
Iさんに何か言わないといけないようですが、教えていただけますか?
四国に行くのなら、綱が欲しいと言ったのです。
綱ですか?
五色の綱ですね。
長さはどの位ですか?
出来れば、1メートルずつ欲しいですね。
それを1つに結わいて、5人の人で持って欲しいのです。
IさんとK(会長)さんとSさんとM子さんと、、、
あと一人は?
ミミさんですね。
四国の人ですから。
白がIさんで、紫がKさんで、赤がSさんで、緑がM子さんで、黄色がミミさんです。
剣山に登ったらでいいので、お願いします。
私は、Iさんに伝えましたが、Iさんは五色のリボンを買って、みんなのためにお守りを夜中まで作っていました。
キクリヒメに言われたことなので、白山神社でお札も用意してくれました。

私は、次の日にキクリヒメの言っていた紐を買いに行きました。

続きます。