釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

文化じゃなくて文花

2013年03月07日 19時22分06秒 | お散歩日記/東京地名の話
昨日の続きの話です。

墨田区文花の地名の由来について調べてみました。

この辺りは東京になる前は南葛飾郡吾嬬町(村)といった地域でした。

明治22年(1889年)に小村井村、葛西川村とほか五ヶ村の一部が合併してできた村で、当初は宮城(皇居)の東の方にあるので「東村」と命名しようとしたところ、当時の東京知事が村に由緒ある吾嬬神社があるからその名前をなのったらどうかいうことになり、「吾嬬村」となったということです。

昭和になり、吾嬬町になって、吾嬬町東1から8、吾嬬町西1から9の17地区に分けられて、その後向島区吾嬬町になりました。

この名前のもとになった吾嬬神社は、明治通りが北十間川を渡る福神橋のそばにあります。

お祭りされているのは弟橘媛(オトタチバナヒメ)。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が相模から上総に渡るときに海が荒れて、それを鎮めるために海中に身を投じた媛です。

東京湾沿岸には弟橘媛にまつわる地名が多くあります。

例えば「袖ヶ浦」、弟橘媛の袖が流れ着いたところとされ、有名なのは千葉の袖ヶ浦ですが、他にも神奈川宿の袖ヶ浦(横浜市)、品川浦の別名の袖ヶ浦(潮干狩りで有名だった。)などがあります。

武蔵国の郡名にもある「橘樹(たちばな)郡」も弟橘媛からでた名前です。

川崎市高津区子母口にある橘樹神社は弟橘媛を祀り、近くの富士見台墳は媛の流れ着いた遺品が葬っていると伝わっています。

この墨田区の吾嬬神社もこの地に媛の着物が流れ着き、塚を作って納めたところだといわれています。

もちろん古墳説もあります。
中川流域には古墳が多いですからね。
立石熊野神社とか柴又八幡神社は古墳の上にできた神社ですから。

この一帯は吾嬬の森とか浮洲の森とかいわれた少し小高い島の形状をした場所だったのでしょう。

江戸時代には、広重も題材にしています。

特に連理の樟は有名だったようですが、戦災で焼失して無残な姿になっています。


連理の楠

江戸時代も参詣する人が多かったらしい。

あの浅草の吾妻橋もこの神社に行く道だったからついたという説もあるくらいです。

さてさて「文花」の地名の話から大きくそれてしまいました。

この吾嬬神社があるところの住所は「立花」、「嬬」は当用漢字じゃないから吾嬬は使えない。

ただし「橘」は難しから平易に「立花」にしました。

ところが明治通りで分断されて西の地域は、名前が無い。

というわけで、文化施設が多いから「文化」ならぬ「文花」にしたという嘘のような話。

ちょっと見、字面も似てるし、というか間違えやすい。

そんなこんな住居表示がなせる話でした。
コメント
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