今から68年前、昭和20年3月10日、ご存知のように東京大空襲のあった日です。
下町を中心に多くの方が犠牲になりました。
あまり知られていないことですが、その日は西麻布(旧笄町)でも焼夷弾による爆撃がありました。
東京での初めての本格的な空襲でしたので、爆撃さえやり過ごせば、また火を消せば大丈夫だと思った方も多かったようです。
父の話では、お風呂屋さんのコンクリートの建物や蔵の中に逃げた方達が、焼夷弾による火災で逃げ場を失い亡くなったということです。
あそこで何人、どこで何人という複数の犠牲者だったようです。
その後、4月の空襲で霞町が、5月の山の手空襲で青山が焦土と化しました。
そのころ米軍の空襲の精度はそんなに高くないというかたもいますが、明らかに燃やさないようにした地域もあったようです。
銅像を機銃掃射で狙ったなんていう話もありますからね。
間違えて燃やすことはあっても、燃やさないようにすることは可能だったんじゃなでしょうか。
逆にいえば狙うことはできたわけです。
まず退路になる橋を攻撃して、その内側を焼く。
戦時といっても心が痛む話です。
下町を中心に多くの方が犠牲になりました。
あまり知られていないことですが、その日は西麻布(旧笄町)でも焼夷弾による爆撃がありました。
東京での初めての本格的な空襲でしたので、爆撃さえやり過ごせば、また火を消せば大丈夫だと思った方も多かったようです。
父の話では、お風呂屋さんのコンクリートの建物や蔵の中に逃げた方達が、焼夷弾による火災で逃げ場を失い亡くなったということです。
あそこで何人、どこで何人という複数の犠牲者だったようです。
その後、4月の空襲で霞町が、5月の山の手空襲で青山が焦土と化しました。
そのころ米軍の空襲の精度はそんなに高くないというかたもいますが、明らかに燃やさないようにした地域もあったようです。
銅像を機銃掃射で狙ったなんていう話もありますからね。
間違えて燃やすことはあっても、燃やさないようにすることは可能だったんじゃなでしょうか。
逆にいえば狙うことはできたわけです。
まず退路になる橋を攻撃して、その内側を焼く。
戦時といっても心が痛む話です。