Kindleで夏目漱石の「道草」青空文庫版を読んだ。
僕は高校時代から大学時代にかけて、漱石の中長編を全部読んでいる。「こころ」と「三四郎」はそれぞれ3回以上読んだと思う。
一度は読んだはずなのだが、ほとんど覚えてない作品を読み返そうと思って、まず一番印象が薄い「道草」に手をつけた。印象どころか、全く記憶になかったのだが、読んでみたら意外に面白かった。へぇー、こんな話だったのか、の連続だった。
主人公の健三が、親戚中からたかられる。養父、養父と別れた元養母、腹違いの姉、義父かな。みんな金に困っていて、大して裕福でもないけど、一番マシな健三の家に次々にやってきては金を無心する。
物語と呼べるような話の展開はほとんどなく、ただひたすら健三が、貸したくないけどはっきり断れずに貸しちゃう、を繰り返す小説である。
前半はあんまり面白くない。素性がよく分からない嫌な連中との景気の悪い会話だけなので。
人物の設定や過去話がちょっとずつ語られて、嫌な連中それぞれのキャラが明らかになってくる後半、だんだん面白くなってくる。お、今回の島田には貸すのか?貸さないのか?ん?みたいな興味で読み進める。
健三と細君の心理戦も面白い。いや、途中までは健三のあまりのクズっぷりに悲しくなるばかりだった。むしゃくしゃして子供が大事にしてる植木鉢を蹴り飛ばして割り、俺のせいじゃないと心の中で言い訳したり。細君を馬鹿にして泣かせたり。温かみのまったくない男なのだ。
でもそれにも原因がある。健三は金のために幼少期に島田に引き取られ、島田が浮気して家を出ていったので実家に戻ったら、実父にも不要物扱いされたという過去があった。親の愛情を受けたことのない人間なのだった。そういう設定が、徐々に明らかになっていくこの展開。わざとなのかたまたまなのか。
ヒステリーを起こすと言われながらも比較的普通の人っぽい印象を読者に与える細君だが、後半になると壮絶な過去が明らかになる。発症すると意識が混濁するとか、深夜徘徊しないように健三は細君の腰と自分の腰をロープで繋いで寝てたとか。健三が口移しで水を飲ませたという話がさらっと出てきて、やるじゃん健三と思った。
細君が三人目の娘を産んで、一応終わり。話の展開っぽいのはそれだけ。
「吾輩は猫である」執筆中くらいの時期の漱石自身が健三のモデルと言われている。健三の精神構造はかなり歪んでいて、他人に知られたいようなものではない。漱石も同じような精神構造だったとしたら、これは太宰の「人間失格」にも匹敵するハードな告白小説と言えるのではなかろうか。
読んでて暗澹たる気持ちになるシーンもあるが、時々クスッと笑ってしまう描写もあるところが漱石であり、さすが文豪の中の文豪だと思った。