公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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今読んでる本『ニーチェかく語りき』 三島憲一著

2017-01-24 16:28:00 | 今読んでる本
今読んでる「ニーチェかく語りき」は文庫本なのだが、立派な書下ろしである。三島由紀夫のところまでしか読んでいないが、これは名著である。深く広い研鑽を踏まなければ書けない本であると感じる。こういう本はすぐに図書館で借りることができる。昭和も92年になると大正期の著作を生み出していた作家たちは見向きもされない。再発見する後世の人々をただひたすら待つしかないというのが文化の悲しさである。ニーチェの解読は人それぞれだ。


『ニーチェかく語りき』三島憲一著 岩波現代文庫
【ニーチェは何を語り、後世の芸術家や思想家はどう読んだのか。イサドラ・ダンカン、ハイデガー、フーコー、バタイユ、三島由紀夫、ローティ、フランクフルト学派の人々が共感を抱いたニーチェの言葉を紹介し、彼らがそこにどのような問題を発見したか、ニーチェ読解の多様性に説き及ぶ。ニーチェを軸に据えた現代思想入門。岩波現代文庫オリジナル版
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844年10月15日 - 1900年8月25日)は、ドイツの哲学者、古典文献学者。現代では実存主義の代表的な思想家の一人として知られる。古典文献学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュルに才能を見出され、哲学教授職を希望しつつも、バーゼル大学古典文献学教授となり、辞職した後は在野の哲学者として一生を過ごした。随所にアフォリズムを用いた、巧みな散文的表現による試みには、文学的価値も認められる。

なお、ドイツ語では、「ニーチェ」(フリードリヒ['fri:drɪç] ヴィルヘルム['vɪlhɛlm] ニーチェ['ni:tʃə])のみならず「ニーツシェ」['ni:tsʃə]とも発音される

三島 憲一(みしま けんいち、1942年11月11日 - )は、日本のドイツ哲学者。博士(人間科学)(大阪大学)。大阪大学名誉教授、ベルリン自由大学名誉博士。日本政治の現在について言ってることは左巻きで、勉強不足。
「彼らには中国がとてつもない脅威のようだ。長いこと見下してきた中国が経済力で日本をはるかに上回っている現実を認めたくないようだ。アメリカの力を借りて押さえ込みたいようだ。しかし、現実問題として、そんなことが可能だろうか。現実主義者が本当に現実をみつめるなら、中国の巨大な現実をみつめて、かつ日本が中国で行った戦争の過去の現実をみつめるべきではないか。福島の肥沃(ひよく)な領土を原発で失っても、誰も住んでいない小さな島を、尖閣、尖閣と騒ぐのも非現実だ。ここ数十年、あそこで本当に現実的に石油掘削ができると思っているのだろうか」と2015年に言ってる。

ニーチェをどう評価するかで自分の思考の座標軸が定まるのが20世紀だった。故に20世紀生まれの全員がニーチェの教え子である。人間を建設する時代が20世紀だった。
ニーチェは生涯、自分が教育者であることを意識していたが、高等教育の現場で過ごした時間は長くなく、その多くは挫折したものだった。1869年、24歳の若さでバーゼル大学の古典文献学の教授に任命され、輝かしい経歴を持つ神童とみなされた。しかし、健康状態の悪化と組織的な学問への幻滅から、1878年に学問の世界を去った。しかし、1878年に健康を害し、組織的な学問に幻滅したため、学問の世界から離れた。そして、1889年に精神的に崩壊し、それから立ち直ることができませんでした。




こような三島憲一さんだが、余計なことに首を突っ込まなきゃ、立派な岩波好みの学者さんだ。19年も原稿を待ってくれた。
ともあれ。
初期のニーチェほどキリスト教と民主主義を同じ根っこの欺瞞と考えていた哲学者は19世紀にはいなかった。

誰もが馴染む民主主義の普遍性は、「隣人愛や平等の普遍性」を「ニーチェはよく畜群道徳と罵倒した」これを当然に民主主義は含む。
ニーチェにとってもっと大きな価値は、ショーペンハウエルが指摘した根拠律の崩壊の先にある根っこの世界のことだった。ショーペンハウエルの充足根拠律に深入りするものは、リアリティが実は非常に抽象的なもの、私はこれを容れ物としてのベクトル空間と考えているが、リアリティは空虚であるばかりか、計算済みの幻影であることに気づいてしまう。だから哲学はこれをアプリオリと扱うしかないとショーペンハウエルも言っている。

ニーチェのそれは政治でも宗教でもなく全く根源の姿の形而上学だった。私は三島由紀夫的ニーチェの読解のところを読みながら、これは神話と共鳴する岡潔の第三の直感に近いと感じた。彼にとって民主主義は新しい形而上学の天蓋のはるか下にある「キリスト教の自然化」でしかなかった。当然そこでは人格的神は死んでいる。生まれてさえいない。生まれるものならばだが。欺瞞を拒絶したニーチェには神という言葉自体に意味が無い。

きわめて現代の問題であるシンギュラリティと同じ社会の伝統的価値基軸の崩壊をニーチェは予言している。そして、現代のこの時点は彼の予言した近代的自我という啓蒙主義や科学主義が蓄える知識の延長の先に神がいるという幻想(人間による自然克服の彼岸に到達できるのは人間しかいないという当然の前提)が崩壊した後の形而上学の時代をわれわれはAIで垣間見ている。

200年ものの畜群道徳は国境を超え空間を超え機械の中に移し替えられようとしている。米アイ・ロボット社のお掃除ロボット「ルンバ」の産みの親ロドニー・ブルックス氏が言うようにそれでもロボットはわれわれのパートナーである時期はしばらく続く。機械も人間がどういうものであるかをしばらくは実地で学ばなければならないからね。結局はただ機械に従う畜群がフォローワーとかユーザーとか仮想通貨保持者とかというただの数字、実体のない存在にすべてを晒し全権を委任して(つまりニーチェの言う個体化原理の崩壊)、今でも35万も発見されるBOT(ボットとは特定の動作を自動化するアプリケーションを指し、ボットアカウントというのはツイートやメッセージの送信などを自動化したアカウント)。特定のトレンドを操作したりすることに利用されてる。そんなSNSを見ながら肉体は操作されていることも知らずにアパートのソファーの上で個を捨てながら腐りだしている。それが人間の性(サガ)である。欺瞞は甘んじて受け入れられないものであっても悲しみ故に受け入れる。

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