盂蘭盆会 レジ前に花束の行列
法師名と乗りて萩のさく朝
稲穂輪に雀飛び込む夏祭り
鳴く蝉が散らす黄葉さくら影
墓に居て地下も灼熱よう来たの
熱心に盂蘭盆会(うらぼんえ)の由来を関係仏典で調べている人には気の毒だが、これは日本独自のものというか空海が入唐のおり盛んだった景教の過越祭事から発案したものなので仏典の根拠はない。そもそも先祖の霊を招待するというのは仏教の解脱理想に反するので小乗系仏教とは馴染まない。「20年の留学予定を短縮し2年で留学の滞在費がなくなったこと」を理由に唐朝に帰国の許可を得て帰るなど生き急ぎの激しい人だった。平城から平安京に移る時代は日本も大きな移行期だった。最澄や空海などのこの時代のエリート僧侶とってなぜ唐が強力な国家なのか、脅威とはならないのか、答えを必要としていた。
そのためには同じような国の体制(仮御所ではなく万世万代の都の必要性)を持たなければ外交書簡も整わないだろうという危機意識に満ちていた世代だったろう。嵯峨天皇と平城上皇の対立軸はそのまま大和様と実質渡来人系唐様の対立軸となった。
過越祭はユダヤ暦の7月15日に始まり、通常8日間(イスラエルでは7日間)続きます。太陽暦では4月5日から13日の間のいずれかの日にあたります。過越祭初日の夕方には、各家庭で「セデル」という特別な祝宴が開催されます。
過越祭はキリスト教の主の晩餐式の背景にもなっています。また、現代ギリシア語で復活祭を意味する「パスカ」は、過越祭を指すヘブライ語に由来しています。