公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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『逆説の日本史』22明治維新編 西南戦争と大久保暗殺の謎 井沢元彦

2016-11-04 07:32:39 | 今読んでる本
井沢氏も西郷の征韓論という政治構図は西郷が明治六年の政変の理由であったかのような後年の常識は岩倉具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)は、日本の公家、政治家。雅号は対岳。謹慎中の法名は友山)が情報操作したものとしている。私は正しい見方だろうと思う。ただその岩倉の「善意」は疑問である。もちろん西郷南洲は一度も征韓論とは言っていないし、征韓論を言い出したのは第一回交渉で顔に泥を塗られた久留米藩出身の佐田 白茅(さだ はくぼう、天保3年12月10日(1833年1月30日) - 明治40年(1907年)10月4日)は明治時代初期の外交官:通称は素一郎で「白茅」は号。元久留米藩士で尊攘派として活動したのち、明治維新後の1869年(明治2年)、「朝鮮交際私議」を太政官に建白し、同年11月外務省判任出仕となった。)である。自らの出世を望んで自ら言い出したことを千載一遇のチャンスを得て実現できなかったのだから交際が征韓論に変わった、このひとの言説はある意味きちがいの人である。これを公式化した「岩倉公実記」の記載は、
***
『岩倉公実記』の編纂過程は次の通りである。
 1.明治16年8月香川敬三(かがわ けいぞう、天保10年11月15日[1](1839年12月20日) - 大正4年(1915年)3月18日)は、水戸藩出身の勤皇志士。東山道軍総督府大軍監・皇后宮大夫・皇太后宮大夫・枢密顧問官。諱は広安。旧姓は蓮田。幼名は、了介または徳松。旧名、鯉沼 伊織(こいぬま いおり)に岩倉具視行状取調べが命ぜられると、香川は岩倉家職員山本復一に資料蒐集を依頼、写字生を使い、おそくも同年11月より蒐集作業を開始した。
 2.明治17年5月頃から城多董が加わり、18年6月頃より薄井竜之が加わるが、薄井は同年8月にはやめ、かわって多田好問(岩倉具視の秘書・内閣書記官・宮内省御用掛を務め、正四位勲三等に叙せられた。詩歌を能くする。大正7年(1918)歿、74才)が加わった。
 3.城多董は年語編集に集中したが、18年8月頃には岩倉具視絵伝(絵巻物)の作成にかかった。絵伝の絵は田中有英に描かせた。
 4.編纂費用は当初香川敬三が立替え、17年頃より21年3月までは内閣機密金から支出され、その後28年9月までは皇后の手元金から支出された。
 5.明治21〜22年頃から三条実万・実美父子の年譜作成が本格化し、山本復一・城多董がこれに関与することになった為、岩倉行状取調べは停滞しつつも、多田好問が中心になり、西尾為忠が加わった。
 6.26年末には岩倉行述編輯は多田が主筆となり、西尾は絵伝の詞書を担当、資料整理は沢渡広孝が行なっていて、具視の10年祭には間に合わなかった。
 7.30年前後は編纂が進まず、33年西尾の死去、35年沢渡の転出にあい、多田一人で執筆する状態になった。
 8.岩倉の20年祭(36年7月)を目標に編纂を急ぎ、多田が執筆した原稿を香川・原保太郎・薄井竜之とで校読会を開いて修正した。
 9.明治36年12月に『岩倉公実記』稿本を奉呈した。
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北畠親房公と同様に公家の伝統、つまり自己正当化=御旗は我にありという人生の後処理だと思う。これを井沢氏は岩倉具視の善意であったとしているが、そう考える背景がよくわからない。善悪も功罪も歴史の視点で見れば「禍福は糾える縄の如し」かふくはあざなえるなわのごとし原典『史記・南越列伝』には「禍に因りて福を為す。成敗の転ずるは、たとえば糾える縄の如し」とあり、『漢書』には「それ禍と福とは、何ぞ糾える縄に異ならん」とある。、という立場なのか?
**朝鮮では佐田白茅は伊藤博文と同じ扱いを受けている「吉田松陰の弟子」とわざわざ書いているのもその流れである。
琴秉洞によれば、明治維新後政権の中枢で征韓論を唱えたのは吉田松陰の弟子である木戸孝允だったが、それを草の根に広げ日本中を熱狂させたのが佐田白茅であり、明治初年には「朝鮮は応神天皇以来、(朝貢の)義務の存する国柄であるから、維新の勢力に乗じ、速やかに手を入れるがよろしい」という建白書を政府に提出した[1]。以後3度にわたって建白書を提出し、佐藤信淵にならって朝鮮征服は「30大隊あればことが足りる」と述べており、琴秉洞は「朝鮮従属を早くから提唱した佐田白茅の朝鮮蔑視の根は深い」と評している[2]。
** ^ 琴秉洞日本人の朝鮮観』p52-p55、明石書店 2006

井沢氏は琴秉洞に与するわけではなさそうだが、木戸孝允(きど たかよしコウインとも呼ばれる)/ 桂 小五郎 (かつら こごろう、天保4年6月26日(1833年8月11日) - 明治10年(1877年)5月26日)と同一人物、日本の武士(長州藩士)、政治家)も早くから征韓論であったと述べている。

ではなぜ下野=反政府戦争になったのか。この飛躍が現代を生きる我々には今一つ理解できない。西郷南洲が何を得ようとした戦争なのかは、この本は自死願望に寄り過ぎている(月照との入水以来それが西郷にないわけではないが、その後の廃藩置県などの政治判断を考えれば100%情緒的判断や持病の弱気に流される西郷南洲ではない)。西南戦争で万が一にでも勝利することがあればこの交戦団体は何をしたかったのか?

私は清国を喰いものにしていた西欧列強の日清修好条約に対する批准妨害にヒントがあると思う。守礼の國と非守礼の國の区別は精神的共同性幻想としてはこの時代の政治家にあったと思う。西郷の立場も岩倉の立場も同じであった(同じ儒教的共同幻想を持っていた)と思うが、問題は帰国組と西郷との対列強コンプレックスの差であったのだろう。対立の軸は列強によって清国で既成事実になった新しい華夷秩序(かいちつじょ)=砲艦支配を考慮した大久保、岩倉らとの権本的道義の置き方の違いにあったのだと思う。
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