公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

「北の国から」 日経新聞 私の履歴書 倉本聰

2016-01-22 09:33:36 | 日本人
 … でも、疑問や怒りを表に出して書くと「おいしいホームドラマ」にならない。視聴率が稼げないのだ。ドラマを貫くコンセプトが固まった。「小さな一家の大きな愛の物語」。アメリカの女性作家、ローラ・インガルスの小説「大草原の小さな家」にも触発された。女優の岸田今日子さんが富良野に来る時に贈ってくださった、僕の愛読書だ。
 僕の中でドラマ「北の国から」が動き始めた。(脚本家)倉本聡』


NHKでも放映された「大草原の小さな家」、人気シリーズだった理由は子供の世代の目を通した大人の物語である点だった。その創作方法が「北の国から」と共通していると思っていたが、着想の参考にした証言はこの記事から初めて確認した。

倉本聰も81歳になるか、最近2016.1.22このようにも言っている。だから草太兄(北村 草太: 演 - 岩城滉一)を死なせているのか。倉本聰は岩城滉一に恩があったはずだ。ガチでボクサーと戦わせて意識失って病院に行ってまで熱演した岩城滉一をあっさりトラクター事故で消している。私はこの81歳の回想に倉本聰の自己中毒の冷血を感じ取る。(別の後日談では万が一、岩城滉一がボクサーを倒した時の脚本も用意していたそうだ)追補平成29年法務省告示第179号 官報平成29年4月5日 本紙第6992号岩城滉一は日本に帰化した。






村西とおる曰く、2021年から文化庁長官でもある
『戸倉俊一の「レッスン指導」を受けていた』頃の山口百恵さんを、
大信田礼子(1974年 - 1978年)が二人のその関係を目撃し、




引用 都倉俊一は新人の女性歌手のレッスンを行う場合は、必ず全裸にさせていたという噂話は有名では有りますよね。
真偽のほどはともかく、ピンクレディの全裸レッスンはもっと有名で。。引用




後の都倉俊一との婚姻と山口の引退に大人の思惑が何か影響したかのどうかは闇の中。

(赤い時)でも本人に執筆してもらわねば永遠にわからない。わかったとしても過ぎ去る川がいつも自分をゆっくりと待ってような虚しい片思いの風景の一部というだけで、世界が反転するような衝撃はない。


「欽ちゃん、久しぶり!」「文化庁長官だって? すごいね~」。対談は和やかな会話から始まった。『スター誕生!』(日本テレビ系)で初代司会(1971~1980年)を務めた萩本欽一氏と、審査員(1971~1981年)だった都倉俊一氏。まさにスターが誕生する瞬間に立ち会い続けた2人が番組の裏話を語ってくれた。(前後編の後編)

──『スタ誕』出身で記憶に残る方のお話を教えてください。

萩本:ある時、都倉っちが「大物が来た」と。レッスンで厳しいことを言うとみんな泣くんだけど、その子は一切動じないって。それが山口百恵ちゃんでした。

都倉:彼女の主演映画『伊豆の踊子』(1974年)を撮った西河克己監督も言っていたけど、彼女には人の目を惹きつける不思議な力がある。今でもアップリケのついたジーンズ姿で『スタ誕』に出場した時の姿が焼き付いていますが、真のスターとはそういうものなんです。

萩本:森昌子ちゃんには申し訳ないことをした。ある時「たわしみたいな頭だね」って言ったら反応してくれなくてね。それ以来、テレビで人の容姿を言うのはやめました。だから彼女は僕にとっての師匠なの。

都倉:僕が作曲した『ペッパー警部』(1976年)でピンク・レディーがデビューした時、松田トシさんが「ミニスカートで脚を開く振り付けは品がない」って怒ってね。レコード会社の上層部からも「もっとオーソドックスな曲でデビューさせたい」と言われたんですが、作詞の阿久さんや振り付けの土居甫さんたちと抵抗して、押し通したんです。

萩本:当時、都倉っちから「“ピンク・レディー”はカクテルの名前からつけた」と聞いて、この人らしいネーミングだなと思ったね。

──番組以外でも出身タレントとの交流はあったのでしょうか。

萩本:僕はあえて距離を置いていたの。岩崎宏美ちゃんはどこで会っても「欽ちゃん!!」って声をかけてくれたけど、あまり親しくすると、『スタ誕』とは関係ないタレントさんは面白くないかもしれないじゃない?

 だから司会をやめる時、「今まで笑顔を見せなくてごめんね」ってみんなに謝った。その時、百恵ちゃんが泣いていたという話をプロデューサーの池田文雄さんから聞いたけど、いつか本人に確かめたいな。

都倉:『スタ誕』はスタッフが素晴らしかった。みんな親身になって出身タレントをかわいがっていたし、組織としても全面的にフォローしていた。まさに“スタ誕ファミリー”ですよ。そういう番組はもう出てこないんじゃないかな。

【プロフィール】
萩本欽一(はぎもと・きんいち)/1941年生まれ、東京都出身。1966年に結成したコント55号で一世を風靡。1980年代は“視聴率100%男”の異名をとる。現在はネットでも活動中。

都倉俊一(とくら・しゅんいち)/1948年生まれ、東京都出身。作曲家としてピンク・レディー、山口百恵、山本リンダらに数々のヒット曲を提供。今年4月、文化庁長官に就任。


 



 ヤマグチの名は山口百恵さんから取った。かつてクマ狩りに使った北海道犬で力持ちで従順な犬だ。

 そんなことを毎日くり返した。食欲も気い力もなく、ふっと死にたくなる。札幌の精神科にとびこむと、医師が「毎年、寒くなると鬱が出ますよ」と嫌なことを言う。それでも精神安定剤と酒で抑え、重い鬱にはならなかった。

 たまに単発のテレビドラマを書くくらいで、仕事はほとんどしなかったから暇がある。ジープを駆ってひなびた田舎の駅舎を巡って写真を撮った。布部、山部、峠下、増毛……。山間の小駅や海辺の寂れた駅舎に心惹(ひ)かれた。

 廃屋も回った。屋根のつぶれた家の中に入り、べこべこの畳に座り込んで物思いにふけった。


当時この倉本聡のドラマを見てどう思ったかと言うと、戦後開拓農家なんてそんな短期間のキャンプのような甘いもんじゃないということだった。特に冬はまきストーブ程度の煮炊き兼用のものでは耐えられない。布団は寝息で毎日凍る。ただ耐えるしか方法がない。我が家はまさに親父がたった一人で森林を切り拓いた原野にポツンとあった小さな家だった。

そういう背景があって特別な思いで見ていたのが「北の国から」だった。本当の北の国には借金夜逃げ朝鮮人、女の奪い合い、暴力、闇金融、穀物相場があった。そういうものまで写し取ろうとした背景にはなにかが、語らせる、運命的なめぐり合わせが働いていたのだろうと思う。私は第一作だけが本当に倉本聰に降りてきていた、いい作品だろうとおもう。
2002年の作品では、むごく、地井武男の妻が乳がんで闘病中でもあることを取材してなのか、作中で中さんの妻を癌で死なせて地井武男さんに演技させている。相太のボクサーデビューもそうであったが、こういう手段を選ばず冷血な人物は滅多にいないだろう。現実以上にリアルを求めた。動機は厳しい北海道の現実を知らないだろうという辱しめを酒席で受けた敵討ちだろうと思う。いまは「@@の郷」とかいう恨み話をドラマにしている。これが彼の言う感動「僕は、うちの若いライターたちに“子宮で泣かせて睾丸で笑わせろ”とよく言う。そういう深いところでやったときに訳も分からずゾクッとするということが“感動”だと思う」2017.4 
つまり倉本聰は変態だ 「空襲で亡くなった人の死体も埋まっている」それで平気なそんな日本人はいない。つまりこいつは非人情は勉強したが、世間の人情は空っぽの馬鹿だ。 変態の馬鹿これが結論。

追補2018.6.15『《僕はたけしというのは全く認めないんですよね》
《以前1本だけ15分くらいのミニドラマをやってるんですけど、それだけですね。僕はあの人を全然認めない。(略)役者としても人間としてもですね》
“世界のキタノ”ことビートたけし(71)を6日6日付『日刊ゲンダイ』の連載『ドラマへの遺言でこうぶった斬ったのは、『北の国から』でお馴染みの大御所脚本家・倉本聰氏(83)だ。』
 
追補
『部長に呼ばれて、「最近、倉本という作家がいい本を書いているから、会いに行ってこい」。これで腹が決まりました。会社にバレるのは時間の問題です。ニッポン放送は4年で辞め、独立することにしました。』
 
2022/09/16 倉本聰、まだ生きてるよね。
2024/03/23 倉本聰は

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