公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

『綺堂むかし語り』 湯屋 岡本綺堂

2015-04-28 17:11:00 | 日本人

湯屋

『 湯屋を風呂屋という人が多くなっただけでも、東京の湯屋の変遷が知られる。三馬の作に「浮世風呂」の名があっても、それは書物の題号であるからで、それを口にする場合には銭湯とか湯屋(ゆうや)とかいうのが普通で、元禄のむかしは知らず、文化文政から明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などと云う者を田舎者として笑ったのである。それが今日では反対になって来たらしい。
 湯屋の二階はいつ頃まで残っていたか、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと同時に禁止されたのであろう。わたしの子供のときには大抵の湯屋に二階があって、そこには若い女が控えていて、二階にあがった客はそこで新聞をよみ、将棋をさし、ラムネをのみ、麦湯を飲んだりしたのである。それを禁じられたのは無論風俗上の取締りから来たのであるが、たといその取締りがなくても、カフェーやミルクホールの繁昌する時代になっては、とうてい存続すべき性質のものではあるまい。しかし、湯あがりに茶を一ぱい飲むのも悪くはない。湯屋のとなりに軽便な喫茶店を設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことを企てたのはないようである。』
( )
『日比谷公園は長州屋敷の跡で、俗に長州ヶ原と呼ばれ、一面の広い草原となって取り残されていた。三宅坂の方面から参謀本部の下に沿って流れ落ちる大溝は、裁判所の横手から長州ヶ原の外部に続いていて、むかしは河獺が出るとか云われたそうであるが、その古い溝の石垣のあいだから鰻が釣れるので、うなぎ屋の印半纏を着た男が小さい岡持をたずさえて穴釣りをしているのをしばしば見受けた。その穴釣りの鰻屋も、この柳のかげに寄って来て甘酒などを飲んでいることもあった。岡持にはかなり大きい鰻が四、五本ぐらい蜿くっているのを、私は見た。』


三崎町も寂しい原だったらしいが、日比谷も原だったんだね。



なるほど90年前の昭和の初め、そこから70年前の江戸の匂いとはこういうものだったのかと思う。平成生まれにとって昭和のアナログな生活も匂いにすら感じられない時代となったが、そういう世代にわずか70年前の昭和の匂いを伝えるのは大変なことになりそうだ。岡本綺堂の時代は風景が変わってしまっただけだったが、今は価値観が変わってしまった。
それほど遡らずとも、40年前,昭和50年代のアイドルの話し方を聞いてみても、女性の場合はとてもおっとりと、弱き者であることを前提にした話しぶりで、後にぶりっ子などと指弾される前のアイドルの会話はとても優雅なやりとりに聞こえる。後世のご参考に、ここにサンプル音源をおいておこう。 八神純子 VS その後のアイドル達この実力ぶりもわからないだろうね。興味深い業界と生きた社会のずれが、この八神さんのインタビューからにじみ出ている。





本当はこの音源じゃなくって、八神さんと渡辺真知子さんのフリートーク入りを載せたかったのですが、ネットから消えてましたので、これです。八神さんは古賀メロディー否定した訳ではないけど、はっきり今は違うと言っている(これだけでも大変憚られる時代だった)。八神さんの純粋に芸能界の序列の空気読んでないよそ者の初々しさが、とてもいいですよ。



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