公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

「細川日記」細川護貞

2016-08-28 19:21:00 | 麻薬

〈朝、川崎豊君(帝国火災保険支配人)を訪問、談たま~東条に及びたるに、彼は昨年中華航空にて現金を輸送せるを憲兵隊に挙げられたるも、直に重役以下釈放となりたることあり、是はその金が東条のものなりしを以てなりとのことにて、以前より里見某なるアヘン密売者が、東条に屡々金品を送りたるを知り居るも、恐らく是ならんと〉



里見 甫(さとみ はじめ、1896年明治29年)1月22日1965年昭和40年)3月21日)は、ジャーナリスト実業家三井物産のもとで関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。



鳩山は近衛公に16億円と報告、公も10億円と聞き及んでいたらしい。アヘンに関連して公式記録に金の流れが出てくるのは珍しい。帝国陸軍内の秘密資金として上海で金の管理をしていたのは里見 甫。アヘンは消費市場があって商品だが、最も大きな市場が支那だった。この金の流れを再支配するのが米国の狙いだった。他に支那の価値はなかった。つまり、Anglo-American alliance すなわちワシントン➖ロンドン体制の戦争プロ達及び昭和天皇が当時の太平洋と中国でやろう-あるいは-やらせようとすることは、巨大ビジネスの私的専有だった。陸軍を手足に使った阿片取引など私的経営による利益及び資産のスイス秘密口座経由の移転。そのための利害関係者への収益分配や戦争ビジネスの配当は、法解釈で天皇の大権で議会から自由な個人決定で可能となった。


青年将校達の犠牲により維新後は法改正せずとも全て合法的にアヘンを対日借款の担保にできる商取引き行為となったのだ。これで20年以上通説だった天皇機関説が突然不敬な学説と攻撃され、意図的警備解除による渡辺錠太郎と高橋是清が殺された二・二六の個人的謎が解決する。


歴史に埋もれた第三の主役 藤田勇 (ふじた いさむ、1887年-没年不詳)が登場する(藤田は大川の子分中島から土肥原を通じて板垣に五万円を手交した)。この男、大正八年(1919年)といういわくつきの年(山本実彦の改造社もこの年に誕生する)に東京毎日新聞(1913年大正2年から1919年大正八年までは山本実彦が社長でその再建資金を工面したのは後藤新平である)社長に32歳でなっている鵺(橋本欣五郎は梟雄(傑物)であると言っているが、藤田は共産主義者で、田口運蔵らと同じ東京毎日新聞に巣食うコミンテルンの手先であり、スターリンに粛清されるまでのアドルフ・アブラモビッチ・ヨッフェ(1922年 第一次国共合作のソ連共産党側の立役者 自殺?)の交渉のつなぎ役である。そもそも藤田の金の出どころはインド産阿片を船ごと接収された高田商会の船を50万円でロシアから払い下げ交渉から始まった。当時アヘンの輸出は国際的に禁止されつつあった(故にこれはイラン系ユダヤ人財閥サスーンの在庫処分)。つまり共産主義者も米国アングロアメリカもアヘンビジネス市場を手中にしようとして方や日本をつかい、方や日本を破壊して手が汚れない最高に利益率の高いビジネスを得ようと狂奔したのが20世紀の戦争の隠れた動機だった。



この時の細川護貞は官吏に過ぎない。しかし東条の娘婿官吏が統制派の東條英機に協力するかのようにして、統制派から皇統派によるクーデターを高松宮公にほのめかす理由は一つしかない。

その力学は、戦争に負けるとわかった昭和18年末の時点でエリート官吏は一斉に保身策を取り始めたということだろう。一般に官吏は引き算の猶予、すなわち所属テリトリー(省益)に犠牲を出さなくてすむことが保険されるべき選択の瞬間、一瞬のパワーを出すのであって、将来にマイナス環境ありき故の「犠牲的献身」を要求して官吏を操るというトリックが政治に生じる。たぶんポジショントークの鳩山は東条の金についてはデマを言っていたのかもしれないが、東條英機のその後の行動を見ても、そのような資金が東條の手によって隠匿された形跡はない。細川日記はある時点から、敗戦後の権力者の誰かに読ませることを意識して書き始めていたのではないかと思われる。笹川良一、児玉誉士夫が末端の小物であった時代、裏で隠然とアヘンビジネスプランを実行していたのは興亜院設立時の総裁近衛文麿とそのワシントン➖ロンドン体制のカウンターパート国外協力者(コミンテルンの裏ボスXであろう。それでなければ陸軍が熱河(優良アヘン集産地)を取る理由が説明できない。

wiki
里見 甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965年3月21日)は、ジャーナリスト、実業家。関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。中国名李鳴。
1937年11月、上海に移り、参謀本部第8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を依頼される。1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂[3]の副董事長(事実上の社長)に就任する。ここで、三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して設立された商社であり実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し、1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立[4]。ペルシャ産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の傀儡であった汪兆銘政権に回した。また、里見機関は、関東軍が極秘に生産していた満州産阿片や、日本軍が生産していた海南島産阿片も取り扱っている。この活動を通じて、青幇の杜月笙・盛文頤や、笹川良一、児玉誉士夫吉田裕彦岩田幸雄許斐氏利阪田誠盛(引用:岩畔 豪雄(いわくろ ひでお[1]、1897年10月10日 - 1970年11月22日)日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍少将。後方勤務要員養成所(陸軍中野学校)設立者)清水行之助らとの地下人脈が形成された[5]。
wiki

『議決 東京支社設置ニ関スル件~」
見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 54
^ 4三井物産は一両つまり32グラムを35円で軍に納入し、これを里見機関がグラムあたり22-23円で宏済善堂に卸した。四川省産よりも品質の良いペルシャ産のアヘンはサスーン財閥系によって上海に流入したが、これを三井物産上海支店が仕入れていた。この上海支店には佐藤喜一郎がおり、調達資金を工面していた。 竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 54
^ 5また、以下の者と知己となった。
・関東軍参謀長であった東條英機
・満州国総務庁次長であった岸信介・古海忠之古海は後に里見の葬儀委員長を務めた。
・満州国民政部禁煙総局長であった難波経一
・満州国産業部鉱工司長であった椎名悦三郎
・岸信介の実弟であり当時鉄道省から上海の華中鉄道設立のために出向していた佐藤栄作
・興亜院蒙疆連絡部経済課長であった大平正芳
・興亜院華北連絡部書記官であった愛知揆一
・興亜院華中連絡部書記官であった長沼弘毅
・海南島・厚生公司東京事務所責任者で、杉山茂丸ともつながりのあった高畠義彦
・上海の国策新聞「大陸新報」社長であった福家俊一
・満州国の首都新京特別市市長であった関屋悌蔵は甘粕にとは親しくさらに甘粕正彦 1945年8月20日(満54歳没:服毒自殺)の人脈は、岸信介、古海忠之、武藤富男、半田敏治、皆川豊治、飯沢重一、関屋悌蔵、藤山一雄(戦後山口県知事顧問)、星子敏雄(戦後熊本市長)と大陸人脈に重複している

 


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