追補2022/04/04
大野 壁を乗り越える方法論は考えたことがない。挑戦する時、何に一番価値があるかは考えている。世の中に役に立つか、学術的な価値はあるのか。多くの研究を見てきて世に出す仕方がうまくないとか、もっと違った価値があるのにもったいないな、と思うことはありました。
宝金 医療の世界のゴールは明確です。病気を治すこと。医療はまず使命ありきで目の前の課題を完璧にこなす必要がある。課題は難しく、何十年かけても完璧な治療法が見つからない。我々の医学の世界で大事なのは、一隅を照らすこと。小さな一歩でも、確かな一歩を誰かが踏み固めると、後の人はそこから先に進める。
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- 1973年3月 北海道札幌南高等学校卒業
大野 英男(おおの ひでお、1954年12月18日 - ) 東京都出身。東京大工学部電子工学科卒。2018年から現職。半導体に磁石の性質を持たせることに成功し、米国電気電子学会デービッド・サーノフ賞を12年に受賞。66歳。A.ザボ、N.S.オストランド(著)、大野公男・阪井健男・望月祐志(共訳):「新しい量子化学:電子構造の理論入門 上下巻」、東京大学出版会、(1987-1988年)。の大野公男は御尊父
寳金 清博(ほうきん きよひろ、宝金 清博、Kiyohiro Houkin、1954年9月24日 - ) 札幌市出身。北海道大医学部医学科卒。2020年10月から現職。脳血管が詰まる難病「もやもや病」の術式開発で、優れた脳血管障害研究に贈られる美原賞を13年に受賞。66歳。
高校とは札幌南高校という公立で北海道で有名な進学校。岩田聡氏は札幌出身で世代は、地域は違うがわたしの一年下になる。札幌オリンピックも地元経験したほぼ同時代の公立進学校が持っていた、教師そっちのけ、なんでもありの雰囲気が自分の高校と共通しているのがおかしい。たぶん60歳くらいの同時代世代には懐かしいことだろう。
ゲーム界のトップに立った天才プログラマー 岩田聡の原点: 高校同期生26人の証言
岩田聡の記録を残す会
岩田 聡(いわた さとる、1959年12月6日 - 2015年7月11日)は、日本のゲームクリエイター、プログラマ、経営者。任天堂の元代表取締役社長で、HAL研究所代表取締役社長なども歴任した[9]。
北海道札幌市出身。札幌市立真駒内中学校、北海道札幌南高等学校、東京工業大学工学部情報工学科卒業。
高校時代、岩田はヒューレット・パッカード社のプログラム電卓「HP-67」の存在(当時のカタログ価格99,000円)を知り、アルバイトをして貯めた資金と父親の援助によって購入、その魅力に取り憑かれて独学でプログラムを学び、『スタートレック』を題材とした自作のゲームを教室の隣席の友達に披露していた。また、そのゲームをヒューレット・パッカード社の代理店に送ったこともあった。あまりの出来の良さに驚いた同社からは、大量の資料が送られてきたという。
大学1年時の1978年には、大学の入学祝いを頭金にローンを組んでコモドール社のホームコンピュータ「PET 2001」を購入しそれを販売していた西武池袋本店のパソコン常設コーナーに毎週のように通っていた。そこで同じくプログラミングを愛好する友人と出会い、彼とは後に、後述の「HAL研究所」で共に仕事をすることになる。大学時代は榎本肇研究室に所属。
《岩田が高校に入学する 1 9 7 0年代半ばになると 、小型コンピューター「マイコン 」が登場する 。マイコン(ワンボ ードマイコン )とは 、むき出しのコンピューター基盤に電卓程度のキ ーボ ードと数字表示用の L E Dを取り付けた非常にシンプルなもので 、国産の製品としては N E Cが 1 9 7 6 (昭和 5 1 )年に発売した T K 8 0に代表される 。初期のマイコンはコンピューターという名前はついてはいるが 、非常に原始的なものだった 。機械語と呼ばれる 0と 1を組み合わせて書くプログラム言語にしか対応しておらず 、書いたプログラムを保存するには 、保存用のプログラムを自分で書き 、カセットレコーダーを接続して保存するしかなかった 。》略《岩田が高校 2年生のときに初めて入手したコンピューターは H P 6 7で 、 1 976年にH P 6 5の後継機として 4 5 0ドルで発売されたものだ 。岩田はこれを使って 、プログラムの基礎を学んだ 。 1 9 7 7 (昭和 5 2 )年になると 、現在のパソコンの元祖ともいえる 、 8ビットのホームコンピューターが登場する 。 1 9 7 7年の 6月 、アップル Ⅱが発売され 、続いて同年 1 0月には 、コモド ール社から P E T 2 0 0 1が出荷された 。 P E T 2 0 0 1はディスプレイ 、キ ーボ ード 、デ ータ保存用カセットレコーダーが 1つの筐体にセットされた 、世界初のオ ールインワンタイプのパ ーソナルコンピューターだといわれている 。岩田は後のインタビューの中で 、 「当時 6 5万円もしたアップル Ⅱは買えず 、大学の合格祝いを頭金にローンを組んで 、 2 9万 8000円で P E T 2 0 0 1を買った 」と語っている 。 ( 「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき ! 」最終回》略《前出の木村の記憶では 、 3年生のときに選択教科だった化学の授業時間も 、新作ゲ ームのお披露目の場になっていた 。この授業は 、化学の先生が化学反応式をひたすら板書し 、生徒たちはそれを書き写すだけで 、生徒が眠ろうが何をしようが先生は気に留めていなかった 。そんな授業だから 、岩田たちは後ろの席でコソコソと 「ゲームのモニタリング 」を始めることができた 。たまに授業中であることも忘れて 「お ーすげぇ !岩田すげぇ !お前天才 ! 」と声を発することもあったが 、先生は怒らなかった 。あまりに楽しそうにやっていたので 、木村も一度電卓を見せてもらったことがあった 。だが 、 「黒い表示部に 、赤い小さな数字が点滅しているだけで 、何がすごくて何が面白いのかまったく理解できず 、一緒に盛り上がることはできませんでした 」 》略《岩田も由良も 、数学と物理の授業時間はゲ ーム制作に熱中し 、授業はほとんど聞いていなかった 。ところが試験を受けると 、岩田はいつも満点を取った 。由良が 「どうしてそんなに点が取れるんだ ? 」と聞くと 、 「勉強しなくていいからだ 」と岩田 。 「お前 、公式はどうするんだ ? 」と聞き返すと 、 「公式を覚えていなくても 、その場で組み立てられるから大丈夫 」とばっさり 。数学に関しては 、岩田には特殊な能力があった 。数字が心底好きな天才肌で 、まるで一度見た数字は覚えてしまうかのようだった 。由良は 「勉強しないのは同じだったが 、岩田は満点で自分は 3 0点くらいだった 」と話している 。 》 引用9「天才プログラマー」独創性にこだわる 岩田聡社長死去”. 朝日新聞 (2015年7月13日). 2015年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年7月14日閲覧。
“岩田社長失った任天堂 直面する3つの課題”. 日本経済新聞 (2015年7月13日). 2015年7月14日閲覧。
“岩田聡社長は「ゲーム人生」を駆け抜けた - 娯楽の王国を守った経営者の功績とは?”. 東洋経済 (2015年7月21日). 2015年8月10日閲覧。
このPC状況が懐かしい。何にでもバイオリズムソフトが付属していた。結局はこの入り口から電子工学とプログラミングの世界にハマっていった同級生や後輩たちが自分世代にもいる。シャープのポケコンCE 150X系はわたしの当時の愛機で、
独自プログラムで、データ参照など自分で開発していたが、進学と就職は生物系に行ったので、プログラム作成は趣味の範囲で終わった。電卓としては社会人になってからもPC88Xが会社に備わってロータス123が使えるようになるまで、10年くらい便利な計算機として活躍した。
岩田氏の10000時間理論によれば、能力をものにするために、仕事なら毎日8時間・週5日・5年間続けてやっと10000時間を超える。ひとかどの秀でた能力を仕事の他で得るためには15年はかかる。自分は30年少しずつだが哲学にこの時間を割り当てた。
リンク先のほぼ( )トイ新聞も読んでみると良いですね。紙切れに折りたたまれた鼻持ちならない自信家の解答を同級生女子へサービスする精神がこの天才の原型を物語っている。彼の人生の悲しさは誰よりも当事者でい続けたい人が、短命(胆管がん)だなんて、皮肉な運命が逆立ちして待っていたこと。次はこれ《岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた》も読んでみよう。
2002年に、山内溥氏から引き継ぐ形で任天堂の社長になった岩田氏は、2015年7月11日に急逝した。
岩田氏の経歴を語るとき、いろいろな側面がありすぎて、どこから触れればいいものか、すこし迷ってしまう。
『ゴルフ』、『バルーンファイト』、『星のカービィ 夢の泉の物語』、『MOTHER2』、『ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ』など数々の名作を手掛けた凄腕プログラマーであり、33歳のときにはHAL研究所の所長に就任し借金を抱えた会社を立て直し、任天堂の社長としては“ニンテンドーDS”や“Wii”の世界的大ヒットとなったハードを世に送り出した。
“社長が訊く”ではさまざまなクリエイターに自らインタビューをしたかと思うと、ニンテンドーダイレクトでゲームファンに“直接!”任天堂タイトルの最新情報を届けていた。
このたび、そんな岩田氏の発言をまとめた『岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。』という本がほぼ日刊イトイ新聞から上梓された。
本書は、ほぼ日刊イトイ新聞や任天堂公式サイト“社長が訊く”の記事から、岩田氏の発言やインタビューがまとめられた言行録となっており、読むと、岩田氏の経歴や考えかたが深く理解できると同時に、人柄まで伝わってくるような、あたたかい1冊に仕上がっている。
この本を編集したのは、元週刊ファミ通編集者で現在は"ほぼ日"に在籍する永田泰大氏。永田氏が本書に懸ける思い、岩田氏との出会い、週刊ファミ通時代の思い出などさまざまなことを訊いた。
岩田氏の経歴を語るとき、いろいろな側面がありすぎて、どこから触れればいいものか、すこし迷ってしまう。
『ゴルフ』、『バルーンファイト』、『星のカービィ 夢の泉の物語』、『MOTHER2』、『ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ』など数々の名作を手掛けた凄腕プログラマーであり、33歳のときにはHAL研究所の所長に就任し借金を抱えた会社を立て直し、任天堂の社長としては“ニンテンドーDS”や“Wii”の世界的大ヒットとなったハードを世に送り出した。
“社長が訊く”ではさまざまなクリエイターに自らインタビューをしたかと思うと、ニンテンドーダイレクトでゲームファンに“直接!”任天堂タイトルの最新情報を届けていた。
このたび、そんな岩田氏の発言をまとめた『岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。』という本がほぼ日刊イトイ新聞から上梓された。
本書は、ほぼ日刊イトイ新聞や任天堂公式サイト“社長が訊く”の記事から、岩田氏の発言やインタビューがまとめられた言行録となっており、読むと、岩田氏の経歴や考えかたが深く理解できると同時に、人柄まで伝わってくるような、あたたかい1冊に仕上がっている。
この本を編集したのは、元週刊ファミ通編集者で現在は"ほぼ日"に在籍する永田泰大氏。永田氏が本書に懸ける思い、岩田氏との出会い、週刊ファミ通時代の思い出などさまざまなことを訊いた。