『みずうみ』の翻訳をした高橋義孝教授−北大にも少しだけ教授籍があった−の気楽な作品で頑固者エッセイを読んでニヤニヤしている。
シュトルムのImenseeは暗記するほど読んだので冒頭は今でも暗唱できる。この老ドイツ文学教授のあとがきが面白い。昭和56年のあとがきは、書くことがいかにも楽しいとばかりに放言独断を省みて軌道修正なく非常に軽快に走り抜けてる。しかし新潮社出版部の山岸さんが亡くなった後の昭和59年のあとがきは、文庫本を亡き山岸氏に捧げ、急にやる気をなくしている。「老境にあるとはなんとしん気臭いことであろうか。」などと書いている。「老年とは一歩また一歩と現象から引き退いて行くことである。」とゲーテが言ったと高橋教授に教えてもらったが、まだ67歳で人生はプラマイゼロと諦観している。どうしても生の中の死、死の中の生は受け入れる準備ができなかったらしい。心に溜め込んだ消化不良の諦観に悲しくなる。
『一体われわれ日本人は例外なしに外人を優遇しすぎる 。その外人も主として欧米人であるが 、外人に対して 「弱い 」のである 。沢山の外人とつき合ってきて 、もういい歳になっているこの私自身がそうなのだから何とも情ない 。反面 、欧米人は心の中では概して日本人を小馬鹿にしている 。永年の外人づき合いから推して 、私はそう断言して一向に差し支えないと考える 。そういう外人を甘やかす必要は毫釐だにもない』
相撲の横綱審議会委員長も務めた老教授がもし今のモンゴル人相撲派閥に強く言えない相撲協会を見たらなんと言うだろうか。高橋先生は敗戦で失ったものについて次に様に言っている(面識があればおっしゃっていると言うべきところだが)『今日の日本では 、実生活と美の世界との間に深い断絶があって 、両者は切り結んでいないという事実がそれである 。両者はそれぞれ相手をそっちのけにして 、そっぽを向いていて 、敢えて内的に係り合いを持とうとしない 。美の世界と日常生活との関係は赤の他人同士のそれなのである 。』
先生の謦咳に触れたことはないが、京都の町屋の美を描いた谷崎潤一郎の『陰翳禮讚』(随筆、1933年-1934年)に日本人がかつて持っていた美意識に通じるものがある。
高橋 義孝(たかはし よしたか、1913年3月27日 - 1995年7月21日)は、日本のドイツ文学者、評論家、随筆家。文壇関係者からは名前を音読みして「たかはし ぎこう」と称される場合も。子供の頃から相撲好きで、1964年、横綱審議委員会委員、1981年には委員長になった。江戸っ子をもって任じ、洒脱な随筆を数多く刊行、蝶ネクタイがトレードマークだった。内田百閒の門下で、愛猫ノラが失踪した際、酒に酔って「今頃は三味線の胴と化してますよ」と電話を入れた事が逆鱗に触れ、しばらく出入り差し止めとなった(電話の件は、百閒の『ノラや』にも登場する)。内田百間氏は夏目先生の門下。