西郷隆盛 新装版池波正太郎
「拙者どもこと 、先般おいとまの上 、非役にて帰県いたしおり候ところ 、今般 、政府へ尋問の筋これあり 、不日に当地発程いたし候間 、おふくみのため 、この段とどけ出で候 。もっとも旧兵隊のものども随行 、多人数出立いたし候間 、人民動揺いたさざるよう 、一層御保護御依頼におよび候也 」
世にも奇妙な宣戦布告文書である。これを中央政府は叛乱とみなした。ここまで西郷を追い詰めて逃げ場を失わせたのには前哨戦佐賀の乱がある。明治はじめ頃の日本はスポンサーを必要としていた。つまりカネがなかった。表向き条約改正という目標があったために急いだこと、それが投資家の保護、法律の整備(人治主義の破壊)であった。そのために一掃しなければならないのは武士の存在、常備軍以外の武装が廃止されることだった。完全に破壊した後に投資するとういうユダヤの教訓の通り大久保は実施した。矛盾する台湾出兵にも、その真意は沈黙するしかなかった。つまりケツ持ち列強諸国を措いて明治の歴史を理解するなら、あっさり清國が台湾と朝鮮は我が版図にあらずと宣言し、朝鮮が条約に応じたのも、台湾出兵も西南戦争も理解できる。西郷にもその真意はわかっていたに違いない。
『家茂が死ぬや 、かつては家茂と将軍位をあらそった一橋慶喜が 〔将軍後見職 〕から 、十五代将軍位についた 。徳川最後の将軍である 。もう 、ほかには将軍になる人物がいないのだ 。この年の十二月二十五日 。孝明天皇が三十六歳の若さで崩御された 。 〔天皇毒殺説 〕がながれた 。証拠となるべきものはない 。その根拠は 、およそ次のごときものである 。薩長連合によって 、一時は鳴りをひそめていた王政復古派の朝臣たちも急激に台頭しはじめ 、親幕の孝明天皇をかこむ公武合体派の朝臣たちと激しく対立しはじめた 。朝廷の臣のみではない 。どこの藩 、どこの大名家でも 、およそ一つの 〔集団 〕があるかぎり 、この二つの派の争闘は反復の頻度を速めつつ 、最後の段階へ近づきつつあった 。』
『ゆえに 、孝明天皇を毒殺したものは 、 「勤王方の公家にちがいない 」との 〔うわさ 〕が 、当時 、祇園町の芸妓たちの間にさえ 、ささやきかわされたという 。 「このことについては何事も口にしてはならぬ 」西郷が全藩士に緘口令を下したのも 、このときだ 。次に 、歴史小説家として著名であった故村雨退二郎氏の著書の中から 、ぬき書きしてみたい 。村雨氏は 、日本医事新報一 、七二五号に 、山崎佐氏が執筆した一文を引用され 、その中で山崎氏が石黒忠悳から聞いた話を紹介しておられる 。山崎佐氏いわく 。 「孝明帝が重体にならせたもうたとき 、岩倉具視のすすめで 、洋医 ・石川桜所が御所へ上った 。ときに慶応二年十二月二十四日である 。その翌日 、天皇が崩御されたので 、世間では岩倉が桜所をして一服 (毒を )もらしめたのであると 、うわさがひろまって石川桜所はついに郷里へ閉塞してしまった 。自分は 、孝明帝を診察した医師や桜所にも 、当時の模様を仔細にたずねたが 、天皇はまぎれもなく疱瘡で崩御なされたのである 。桜所は御所へ上ったが 、診察もせず 、薬もさしあげぬうちに天皇が亡くなられ 、そのまま空しく御所から下ったのが真相で 、桜所の冤をそそぐために 、その点 、はっきりと話しておく 」以上 、石黒忠悳が山崎佐氏に語ったものである 。』
と池波正太郎も西郷の緘口令に触れている。なぜ緘口令が必要だったのか?真実は謀殺と考えるべきだろう。村雨氏の厠で刺殺の有様知人祖父目撃談の伝聞も引用している。
『村雨氏の知人の祖父で、当時御所の医師として勤められていた山本正文氏の証言として「孝明天皇は、厠から出てこられ、手を洗っておられるときに下から、手槍でぐさり・・・と。」そして山本医師が御所に駆けつけたときに、25、6歳の女官が襖の陰から天皇の様子を伺っていたそうで「ニヤリとそれは不気味な笑いをうかべたかとおもうと、スーッとどこかに消えた」のだそうだ。
この話を信ずべきものだというのではない。つまりそのころの時代の暗黒面が、これほどにすさまじいものであったことを、いいたいのである。
どこの国においても、革命前夜の様相の物凄さは同じである。(『近藤勇白書』より)』ともある。
LGも毒を盛られたか?
「拙者どもこと 、先般おいとまの上 、非役にて帰県いたしおり候ところ 、今般 、政府へ尋問の筋これあり 、不日に当地発程いたし候間 、おふくみのため 、この段とどけ出で候 。もっとも旧兵隊のものども随行 、多人数出立いたし候間 、人民動揺いたさざるよう 、一層御保護御依頼におよび候也 」
世にも奇妙な宣戦布告文書である。これを中央政府は叛乱とみなした。ここまで西郷を追い詰めて逃げ場を失わせたのには前哨戦佐賀の乱がある。明治はじめ頃の日本はスポンサーを必要としていた。つまりカネがなかった。表向き条約改正という目標があったために急いだこと、それが投資家の保護、法律の整備(人治主義の破壊)であった。そのために一掃しなければならないのは武士の存在、常備軍以外の武装が廃止されることだった。完全に破壊した後に投資するとういうユダヤの教訓の通り大久保は実施した。矛盾する台湾出兵にも、その真意は沈黙するしかなかった。つまりケツ持ち列強諸国を措いて明治の歴史を理解するなら、あっさり清國が台湾と朝鮮は我が版図にあらずと宣言し、朝鮮が条約に応じたのも、台湾出兵も西南戦争も理解できる。西郷にもその真意はわかっていたに違いない。
『家茂が死ぬや 、かつては家茂と将軍位をあらそった一橋慶喜が 〔将軍後見職 〕から 、十五代将軍位についた 。徳川最後の将軍である 。もう 、ほかには将軍になる人物がいないのだ 。この年の十二月二十五日 。孝明天皇が三十六歳の若さで崩御された 。 〔天皇毒殺説 〕がながれた 。証拠となるべきものはない 。その根拠は 、およそ次のごときものである 。薩長連合によって 、一時は鳴りをひそめていた王政復古派の朝臣たちも急激に台頭しはじめ 、親幕の孝明天皇をかこむ公武合体派の朝臣たちと激しく対立しはじめた 。朝廷の臣のみではない 。どこの藩 、どこの大名家でも 、およそ一つの 〔集団 〕があるかぎり 、この二つの派の争闘は反復の頻度を速めつつ 、最後の段階へ近づきつつあった 。』
『ゆえに 、孝明天皇を毒殺したものは 、 「勤王方の公家にちがいない 」との 〔うわさ 〕が 、当時 、祇園町の芸妓たちの間にさえ 、ささやきかわされたという 。 「このことについては何事も口にしてはならぬ 」西郷が全藩士に緘口令を下したのも 、このときだ 。次に 、歴史小説家として著名であった故村雨退二郎氏の著書の中から 、ぬき書きしてみたい 。村雨氏は 、日本医事新報一 、七二五号に 、山崎佐氏が執筆した一文を引用され 、その中で山崎氏が石黒忠悳から聞いた話を紹介しておられる 。山崎佐氏いわく 。 「孝明帝が重体にならせたもうたとき 、岩倉具視のすすめで 、洋医 ・石川桜所が御所へ上った 。ときに慶応二年十二月二十四日である 。その翌日 、天皇が崩御されたので 、世間では岩倉が桜所をして一服 (毒を )もらしめたのであると 、うわさがひろまって石川桜所はついに郷里へ閉塞してしまった 。自分は 、孝明帝を診察した医師や桜所にも 、当時の模様を仔細にたずねたが 、天皇はまぎれもなく疱瘡で崩御なされたのである 。桜所は御所へ上ったが 、診察もせず 、薬もさしあげぬうちに天皇が亡くなられ 、そのまま空しく御所から下ったのが真相で 、桜所の冤をそそぐために 、その点 、はっきりと話しておく 」以上 、石黒忠悳が山崎佐氏に語ったものである 。』
と池波正太郎も西郷の緘口令に触れている。なぜ緘口令が必要だったのか?真実は謀殺と考えるべきだろう。村雨氏の厠で刺殺の有様知人祖父目撃談の伝聞も引用している。
『村雨氏の知人の祖父で、当時御所の医師として勤められていた山本正文氏の証言として「孝明天皇は、厠から出てこられ、手を洗っておられるときに下から、手槍でぐさり・・・と。」そして山本医師が御所に駆けつけたときに、25、6歳の女官が襖の陰から天皇の様子を伺っていたそうで「ニヤリとそれは不気味な笑いをうかべたかとおもうと、スーッとどこかに消えた」のだそうだ。
この話を信ずべきものだというのではない。つまりそのころの時代の暗黒面が、これほどにすさまじいものであったことを、いいたいのである。
どこの国においても、革命前夜の様相の物凄さは同じである。(『近藤勇白書』より)』ともある。
LGも毒を盛られたか?