もう死んだ友人の話ではあるが、その友の言語の投影がまだ私の脳裏のどこかに残っている。草葉の陰に行った人、志のもとに散った人の言語、私はその言語を投影できただろうか?今はただキャッチボールする相手がいないボールを握る。
彼らとは再び二度と語り合えないが、どうしても頭から消えない若さゆえの議論があった。
1、人間の人間的解放は善なのか。
2、人間は自らを正しい方向で解放できるものか。
3、そもそも人間存在は善なのか。
実はこの問いは神学的にも結構難解な問いだった。悪の存在を肯定して初めて人間は神に試される。仏教的には出家は悪を前提とするということになる。自由意志の根拠が絶対的性善のために合理化されるのではなく性悪によって合理化される。皮肉にもこれには今も解決する知恵がない。
ミルトンが一人のリーダーとして描くサタンの姿は、マキャベリが描いた君主像と重なる。勇敢さと狡猾さという君主に適した資質を兼ね備えるサタンは、状況の変化にうまく対応でき、危険を冒すに足る自信をもち、力と策略それぞれの利点を心得ている(「まだ上策が残っている/権謀術数をひそかに用いて/武力で成しえなかったことを果たすのだ(7)」)。
ミルトンは真の自由意志の行使が、無条件で全面的に神に服従するという決断につながることを示そうとした。つまり、神は人間の自由意志を認める一方で、それぞれの人間がどのような決断を下すのかを知っている、というのだ。
ミルトンはもともとカルヴァン主義者だったが、『失楽園』執筆のころにはアルミニウス主義者になっていた。ミルトンの考え方は、「神は絶対的な命令をまったく下さず、人間に自由に行動する能力を残した」のであり、神がこれと反対の立場をとることは不条理で不公平である、というものだった。もし神が「自分の意のままに人間の意志を道徳的に好ましい方向、あるいは邪悪な方向へと動かして、善良な行為には恩恵をほどこし、邪悪な行為には罰を与えるのだとすれば、あらゆる方面から神の裁きに対する抗議の声があがるだろう(1)」。創世記で提起された難解な疑問に対する最良の答えは、悪の存在がなければ、人間の信仰を試し、善良に振る舞う力があると人間に認めさせることはできないから、というものになる。ミルトンは『失楽園』で神が「堕落するのも自由だが/立つ力のあるものとして正しく」人間を造ったと、神自身に説明させている(2)(戦略の世界史 上 5章 サタンの戦略 ローレン・フリードマン )
アルミニウス主義(アルミニウスしゅぎ)は、オランダ改革派出身のヤーコブス・アルミニウスがカルヴァン主義の予定説に疑問を持ったことから生まれた、修正主義カルヴィニスト、カルヴァン主義傍流である。
論争途中で亡くなったアルミニウスの死後、1610年に、彼の支持者たちが、ウーテンボハールトを中心に自分たちの信条を定めた『建白書』(Remonstrantie)を提出、アルミニウス主義の認可を政府に求めたことから、レモンストランスと呼ばれた。この問題を解決するために1618年にドルトレヒト会議がもたれたが、この会議では、アルミニウス主義は、公式に認められなかった。現在では、メソジスト、ホーリネスなどがこの立場を取っている。