公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

モナドの呪縛

2019-10-28 07:21:00 | モナドの呪縛

注意 これは『ライプニッツの数理哲学』稲岡大志著の書評ではない。この書評は後日投稿する。


ここではその前提となっているライプニッツ の単子論をレヴューする。アトミズムのアトム同様、定義上モナドには部分がない。ところで人間の人生は自分の肉体という直接の客観がこの世に生まれ、やがてこの世を去る。これが人間共通のこの世の旅路。

せっかくだからモナドを知るために、入れ子細工の複雑で階層的な部品からなるこの世にあって、余計なものは捨てて、もう部分が含まれないと思える単位に出会うまで論理を回してみよう。どうだろう。どこまでも対象を求めて自己を見てその見ている自己を見てどこまでも後退する自己意識はどこまでも自己の外に出ることはない、故に自己意識は一つのモナドある。故に自我の中に部分はない。これはアトミズムのアトムとは大いに違う。アトミズムのように観察者が対象外に居ない。第一や第二の直感のように指し示す事ができる心象はアトミズムの対象であるが、第三の直感はモナドでなければ魂がニーチェ的自己分裂を起こして、権力志向に主体を動的に発散して強(永劫回帰)者の生成の居直りとして失敗してしまう。「隣人愛や平等の普遍性」を「ニーチェはよく畜群道徳と罵倒した」という。リアルを直感する行為にショーペンハウエルのいうように根拠律部分があるのならリアルから行為主体が遊離する。リアルは生成し永劫回帰するとしても区別は同一という永劫反復の矛盾を抱える。故に自己意識は一つのモナドでなければならない。区別作用だけが残る区別のない世界これが自己意識の底、死と再生である。

 

「主体(Subjekt)という 〈アトム 〉 は無 い 。主 体 領 域(SphareeinesSubjekts)は 絶えず増大しつつあるか、減少しつつあるかである。主体 という系中心は絶えず変動 しつつある。 獲得した量 (dieangeeignete Masse) を 有機化 できない場合 、主体 は二つに分裂 す る。他 方 にお いて、主体は自分より弱い主体を無化することなしに (ohneeszuvernichten) 、 自分 の機能に改造し、ついにある程度までそれと合体 して、一つの新しい統一を形成することができる。主体は 〈実体 〉ではな く、寧ろそれ自体、より強くなろうと努力するものである。そしてそれは 間接的 にのみ 自己 を 〈保存 〉しようと欲する。(そ れは 自己を凌駕 しようと欲する)」(KSA,Bd.12,9【98]=WM488)(6>
「主体 という 〈アトム〉はない」。



 

少なくともこれで自己意識の無限後退問題という古典的難問が一つ解決する。起源の起源についても同じである。わたしが単子論に見惚れる理由はまずここ、無限後退問題の消去にある。


部分があればそこ《境界》へ向かう区別作用が生じる。その逆《作用が始点と終点を作る》もある。故に部分と区別作用は一対のものである。この思弁にしっかりついてきてもらいたい。部分と区別作用は一対のもの、物理的にこれを言い換えると空間と運動は一対のものである。しかしその始原は区別作用だけが残る区別のない世界、空間が運動に先立つ始原世界ではなく、理性が空間に先立つ。その前の始原の区別作用は物理的に真空のエネルギーに相当する。区別作用だけが残る区別のない世界、《空間が運動》この形容は存在としては矛盾するような外見だが、論理としては筋が通ってる。元のない関数、¥自身の空集合を入力したときの出力と見なせばよい。つまりわたしが辿り着くまで30年かかった《非所与としての自己の哲学》から見れば、理性とモナドの始まりが少し理解出来る。そればかりか非常に馴染みが良い。思弁的には、2点の区別のない世界に運動はない。故に時間はない。他方2点以上の区別のある点で同じ点に戻る経路のないつながりの点と辺の差は常に1である。つまりtree。このtree運動状態(複合単射関数状態)が合成モナドである。故に2点の区別のない世界 null空間にnull空間を入力することで運動すなわち関数が生じると考えざる得ない。このロジックが私が考える《非所与としての自己の哲学》と同じ。ここに形式的に全ての起源の答えがわたしなりに見えたが、意識起源の難問はこのモナドの始まりに舞台移動する。こういうモナド(関数の)集合が神によるこの世の創造の最小単位であると見たライプニッツ自身詳細を明らかにしてはいないが、理性的手法で神に敬意を尽くした天才である。

 

 


あなたもわたしも、この世の旅路にあって、あなたの接する直接の客観にモナド集合が見出せなくとも落胆することはない。不幸にしてあなたがこの世で壊れて自己分裂してしまうまで、そうして誰もが公平にこの世を去るまで、すでにあなたが目覚めたモナド関数の一つだから。落胆は無用なのだ。人は誰しもこの世を去る時までには目にするだろう。非セパラブルつまり、宇宙のエンタングル関係がモナドである。ρ ∈ S(HA) ⊗min S(HB) の状態がセパラブル状態で,ρ ∈ S(HA ⊗ HB) S(HA) ⊗min S(HB) である状態がエンタングルした状態である。

閑話

米グーグルは23日、量子コンピューターを使い、複雑な計算問題を最先端のスーパーコンピューターよりも極めて短い時間で解くことに成功したと発表した。理論上、量子コンピューターはスパコンを上回る性能を持つと考えられてきたが、世界で初めて実験で証明した。人工知能(AI)などに続く革新的技術として期待される量子コンピューターの実用化へ、大きく前進する。

閑話終


我々の物質因果律の世界背景には、先行する光電子エンタングルメント作用という物理背景を持つモナドの集合(関数の重ね合わせによる演算と思弁)がある。究極的に長い時間を経て一つのモナド=ビックバンの諸結果に所属している(とわれわれの意識が選択している)。

いずれにしても物質因果に支配されるわれわれが観察者になるとき、われわれのみたい世界しかみえない。世界概念は無数の可能世界の一つがモナドの集合から選択されて、最終的に人口を膾炙してわたしの脳裏にある。故にこの世はわれわれのみたい世界のまぼろしである。なぜそのように考えるかという思考過程はあまりにも長くここでは略すが、第一の理論根拠として2点の間の区別ができない世界に運動はない、第二にエンタングルメントによる位置情報は空間を前提としない。故にもつれる2点が区別できなくなれば因果律世界は終わる。さらに重要なモナドの属性は合成である。合成されたモナドが2点関係がtreeかtreeでないかだけが自己判別条件である。これで空間全体が論理的かつ物理的に定義できる枠組みができた。もう一つ必要な要素はモナドの持つ波動と波動共鳴だが、まだ物理的仕組みまでは実証根拠が確認されていない(量子もつれの固有振動)し、思いつかない。空間を位置集合と観るライプニッツ の空間論理では宇宙は物質の容れ物ではない位置の集まりとみている。さらに遷移しないあるいは固有振動が止まって遷移の終わったエンタングルメントには時間がない。故に様々な経路を経てエンタングルメントが内包する情報は宇宙において可能世界の取りうるエネルギー状態の中で一つの最低エネルギー状態を持つモナドエントロピーに至る。私はこれを宇宙辞書と名付け呼ぶことにする。

EPR はまず物理学の理論の成功を判断する上で次の 2 つの基準を導入した。 • 正しさ (correctness) – これは理論の予言と実験の一致度で測られる。 • 完全さ (completeness) – あらゆる「物理的実在の要素」の対応物 が理論の中に含まれていること。

この意味でこの理論は未完である。

以上ERPに反して様々に論証過程を飛ばしたが、大切なことは情報量としてみた宇宙の階層化は既に遥か昔に遷移の終わりを遂げていること。もしかしたらわれわれの意識はまだ遷移しているのかもしれないが、物質宇宙(空間と時間)は無時間非局在のモナドの縦糸をなぞって遷移しているだけのまぼろしである。ライプニッツの先進的洞察は、この物理の根底的理論革命(少なくともニュートンやデカルトに対しての革命)が哲学と物質物理の統一に通じている論理であるという道筋を残したということ。まさに人類の哲学遺産である。


わたしの宇宙辞書概念は、そのような物質進化に先行する情報計算の飽和を前提に措いている。ここから宇宙は私たちに内包している素粒子が横糸、縦糸として織りなす量子もつれとの巨大な仮想の編み物であるという宇宙認識を導出する。なぜこのように考えるかといえば全ての物質は遷移し起源と消滅という時間端( 陽子崩壊など実験中 )をその中に持っているからだ。端のある物質世界の未来はその時世界は何と接しているのか?無時間と接していなければ物質遷移の理屈に合わない。かりに物質とは別に時間が定義できたり観察できるのであれば別だが(下記ジュリアン・バーバーは否定する)、既存の空間概念では全物質崩壊後、因果法則のない空間に物理理論が収まりきらない。これは難問である。時間端の量子論処理で物理学の標準モデルはそのとき存在するのかしないのか、行き場がなく行き詰まっている。

 

現在の科学水準では時間に関してはアインシュタインの時空理論が天文学の基本であるのでライプニッツ のような時間の捉え方はマイナーではあるが、大学や学界と距離をおく研究者バーバーが同様な理論を発表している。彼は単なる隠者やcrankではない。

 

ジュリアン・バーバー(Julian Barbour、1937年 - )は、イギリスの物理学者であり、量子重力理論と科学史の専門家である。

1968年にケルン大学からアインシュタインの一般相対性理論の基礎に関する論文で博士号を取得した。バーバーは、自由な研究を望むために大学には籍をおかず、パートタイムの翻訳業で経済的な糧を得ながら、妻と3人の子供を養い、しかも優れた学術論文を発表した。約30年以上にわたり時間の研究を続け、その成果を科学雑誌ネイチャー等に30以上の科学論文を公表した。時間論においてユニークな理論を提唱しており、著書であるThe End of Time にて、宇宙には時間は存在しておらず、時間とはあくまで人類の感覚としての幻想だと主張した。彼はイングランドのバンバァリイ(Banbury)近郊に居を構えている。




これまでの常識では因果法則が普遍に成り立つのは物質の寿命の範囲でのことである。では因果の消滅した宇宙はどういう理論に従うのか?ライプニッツはこのように言及している。 『全ての集合させられた物体は破壊されうる。そこには諸要素Elementaが、つまりは破壊されえない諸物体があるようである。それはまさに、それらの内に精神Mensがあるからである』ライプニッツの時代の元素知識は限られたものだ。しかし破壊できないものに支えられているという考察はどこからきたものだろう?少なくともライプニッツの不滅の概念は物質ではない。故にライプニッツの認識する時空間は物質の容れ物、座標軸グリットではなく、ただの全位置情報の宇宙的集合という。ここにライプニッツ のすばらしいデジタルの洞察がある。現代物理学に蘇り生きてくる。この論究の最後には因果律が消滅して観察者という因果律の部品が排除されなければならない。物理学はこういう極度仮定に打ち克たねば真理とは言えぬ。


しかしモナド集合のこれらの成立を人間が俯瞰するには素粒子に依存しない状態変化、すなわち死ぬか、数学的に生きながら死ぬ論理が必要である。これが私の言うモナドの呪縛である。わたし達が選択する状態の可能性は宇宙辞書で検証済である。故にわたたちの世界が起こる。モナドの呪縛は神でも悪魔でもない。わたし達の魂の出自の真相、自己が空あることの裏返しである。 『ライプニッツの数理哲学』稲岡大志 

『モナドロジー』ドイツの哲学者ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646~1716) 全てのモナドは空集合の入力とその空集合への単射から始まる。物理モナドではどんな空集合入力も量子的ゼロ点振動の範囲内でずれる事で元のあった集合には戻れない。故に第二のモナドが生まれる。このようにして無限にモナドは増加し発散する。

数論の法則は、目に見えて現れるものだが、その証明は、宇宙の闇に深く横たわっている。

カール・フリードリヒ・ガウス


これこそが地球人類すなわち人間から見た宇宙の開闢と進化である。この単射作用が同時に情報リレーである場合に限定して、有限の物質範囲に単射関数のtree、階層増加が見込まれる。少しずつ属性の違うモナドは組織化し階層を作って高次構造の中に外部刺激の仕分け反応分業を始める。これが意識である。故に意識は宇宙開闢の小さな再生である。多くの意識体系はこの仕分け分業で頭脳のこの世は終わる。他方意識が生まれる前から超越存在する宇宙開闢以来宇宙の晴れ上がりまでのモナドは10^100以内の電子の量子もつれペアとして自己単射関数の物質化が始まる。

自然数が無限にあるとしたならば、偶数も無限にあると対応させることができると同じく、無限に接するものは同じ密度で無限である。(

引用元)

モナドの数は2点間の元と写像の関係であったとしても同じように無限である。
おそらくライプニッツの思った神とはこのことであろう。


故に物理モナドと抽象的モナドは宇宙の晴れ上がりまでは区別がない。わたしが求めている哲学と物理学の統一はこのシステムの解明に道がある。最終的には実験哲学をモナドの仮想モデルの並列を用いて証明するのが哲学と物理学の統一の目標になる。晴れ上がりの後


 (参考)

《理研の梅畑豪紀特別研究員らは、すばる望遠鏡(米ハワイ島)を使い、みずがめ座の方角、約115億光年先の銀河が集まる領域を観測。アルマ望遠鏡(南米・チリ)の観測も加え、縦450万光年、横300万光年の領域に星を活発に形成する銀河やブラックホール計18個が集中しているのを見つけた。

 さらに、VLT望遠鏡(同)で水素ガスの分布を詳しく調べたところ、18個の銀河などがすべて帯状の水素ガスに沿って存在していることが分かった。》

生物の進化も最近竹内 信人(ニュージーランド・オークランド大学 上級講師、東京大学生物普遍性連携研究機構 客員准教授) と金子 邦彦(東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻 教授、東京大学生物普遍性連携研究機構 機構長) 《原始細胞内に分子(初期は紫色の丸)があり、互いに触媒、情報として働いている。分裂を繰り返して進化していくと、触媒に特化した分子(赤)と情報に特化した分子(青)へと、対称性が破れ、分業する。 》と理論を立てた。



宇宙全体に広がった量子もつれは、その仕組みは不明だが、いくつかの節点を持ち、量子ビットマトリックスを形成して事実上の計算機情報が解を求め特殊化する。故に宇宙はある意味一体の計算機であり、宇宙シミュレーターである。われわれの意識はその計算結果を物理的に受信して望みの宇宙を選択する。観測とは宇宙の選択である。天才の頭脳にあらゆる難問の答えが先に見える理由はこの情報宇宙構造に由来する。


次に単なるモナドがなぜ自己意識に目覚めるのかということを見ておかなければならない。量子もつれは重ね合わせが可能である。ある種の共振が一般に拡張できる共振を導くことで、モナドは霊格(階層的共振現象)を与えられる。こうした宇宙構造から人間の土台と霊格は与えられ、生まれたときにほとんどの人間の霊格が決まっている。故に霊格の低い動物には人間のように社会や宇宙を選択することができない。人類の未来は物質の進化ではない。これまでの人類史は霊格の上昇によって科学法則を発見し、物質利用を拡大した結果であり、これから先もより自由な霊格上昇の方向に意図的に頭脳が開発される。アレックス・コリアーがいまだに意味が分からないと言って引用しているリラ人が「量子的確率の制御(コントロール)を経験してる」とは霊格の上昇が前提である。


故にどんなに生きることが困難でも、選択可能な可能宇宙がわれわれの根本にある。近代の超克とは本願とも呼ばれる可能世界、可能宇宙への信頼から始まる。これが生きながら死ぬ論理の大乗的基礎である。観念と実相を結びつけた脳裏の作用が可能世界のリアリティの源泉でありその作用が違う世代は全く違うリアリティに生きる。人間の生きる努力はその霊格土台を他の人の土台と繋げて見えない波動を広げてゆくことにある。


ライプニッツは最近評価され直されてる。例えば黒崎政男の書評、《「哲学はまったくの無駄なのだろうか。わたしたちはライプニッツが300年前に研究し確立した二進法のことを思い出してみるべきだろう。ライプニッツという一人の天才の頭脳のなかで考えられた新しい表記法が、役に立つものとして実現化するのにじつに300年の年月が必要だったのだ。時代を一変させるようなテクノロジーとは、100年単位のスパンが必要なのだ。」》特にライプニッツ晩年、ニュートン空間に批判的だったために、空間論がライプニッツの人生をかけた主題だった。これまでクラークとの往復書簡のやり取りは研究されてきたが、ユークリッド幾何学を批判的に書き換え、一性を紹介する本書は興味深い。


しかしそれを読む前に物理学としてライプニッツを再評価すべきなのが「すべてのモノの位置集合」= 空間として、デジタル的に定義した天才的視点である。物理知識の歴史転換をライプニッツは量子論のない300年も前にとびとびの要素からなる宇宙を提起していた。空間はむしろモノの属性であり、すべてのモノの位置集合=空間とする考えは可能世界論と馴染みが良い。ライプニッツ空間から見ればニュートン空間は閉じた部分の説明である。ライプニッツ空間のいわゆる関係説では空間はモノの属性の一種である。ライプニッツにとっては時間さえ契機変化関係の従属パラメータ、時間とはモノの推移ありきの継起仮想であり、モノとそれを認識する人間が無ければ時空は存在しない。これはアインシュタインとも哲学的に鋭く対立する。


私が知る限り、量子論を基礎とする可能世界論が常識とかけ離れているためにライプニッツ空間論理は一般化していない。しかし仮にライプニッツが生きていても予定調和に寄っていたライプニッツは可能世界論には賛成しないだろう。しかし私は可能世界論の多世界解釈の究極の理論は最終的に予定調和論になると考える。なぜならば基底となる宇宙辞書は最初の量子もつれの可能な物理量以上には読み取ることができないからだ。無限についても、私は宇宙空間が事実上無限ならば到達距離無限の重力の重心はわれわれに無限遠の重力影響力を及ぼすはずと考えるが、事実は有限の近傍重力しか無い。つまり宇宙は容れ物ではない。場所の集合起点となるモノをわれわれが観測選択した結果、人間の見た空間になる。故にブラックホールもわれわれが探すほどにますます増えてゆく。実はモノが観測起点ではなく区別作用の脳内再生が起点となっている。


¥ We have seen that monads provide a useful framework for structuring recursive descent parsers. The empty parser and sequencing correspond directly to unit and ⋆, and the monads laws reflect that sequencing is associative and has the empty parser as a unit. The failing parser and alternation correspond to zero and ⊕, which satisfy laws reflecting that alternation is associative and has the failing parser as a unit, and that sequencing distributes through alternation. Sequencing and alternation are fundamental not just to parsers but to much of computing. If monads capture sequencing, then it is reasonable to ask: what captures both sequencing and alternation? It may be that unit, ⋆, zero, and ⊕, together with the laws above, provide such a structure. Further experiments are needed. One hopeful indication is that a slight variation of the parser monad yields a plausible model of Dijkstra’s guarded command language.

user_image 32/a3/ffaa60fd331b7dc2b1578608a373e571.jpg]


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« The Alleged Killing of Elus... | トップ | KININARU 技術 23省エネ・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。