940年平将門が討ち死した日
940年3月25日(天慶3年2月14日)、平将門と追討の平貞盛・藤原秀郷の軍勢が激突し、将門が討ち死にしました(承平天慶の乱)。場所は下総国。猿島郡と伝わる。農作業を控えた手勢を帰した400ほどの将門は10倍の兵力に囲まれた将門は敗れる。農耕時期の遅い関東北部を拠点とする秀郷には地の利があった。
秀郷は従四位下・下野守に任命され、下野一国を取りしきる立場から武蔵守、鎮守府将軍を兼任する。大功を挙げながらも、それ以降は史料にほとんど名前が見られなくなる。俵藤太伝説はあっても情報が少ない。没年は「田原族譜」によると正暦2年9月25日(991年11月4日)に101歳で亡くなったとされるが、「系図纂要」によると天徳2年2月17日(958年3月10日)に亡くなったとされる。その子孫はどうなった興味深いところだ。
藤原系足利一族
藤原秀郷の子孫は代々坂東各地の国司や鎮守府将軍を歴任していた。
「仁和寺法金剛院領目録」に同荘の名前があり、同院の創建が大治5年(1130年)であることから、その前後に仁和寺領として成立したとみられている。秀郷流の藤原兼行(淵名兼行)が「淵名大夫」の異名
淵名荘(ふちなのしょう)は、上野国佐位郡(現在の群馬県伊勢崎市)にあった荘園。郡のほぼ全域が荘域であったことから、佐位荘(さいのしょう)とも称された。
淵名荘(ふちなのしょう)は、上野国佐位郡(現在の群馬県伊勢崎市)にあった荘園。郡のほぼ全域が荘域であったことから、佐位荘(さいのしょう)とも称された。
淵名兼行の代に上野国に土着し、その子の成行は下野国足利郡を本拠として足利と名乗った。ただし、兼行・成行は系図以外の史料では確認できない。確実な史料に現れるのは足利成綱・足利家綱からで、京で行われる相撲節に相撲人としてたびたび参加している。藤原流足利は頼朝に滅ぼされている。
小貫一族
秀郷より20代目にあたる小野崎氏第13代当主小野崎通春の次男・通伯が常陸国久慈郡小貫村にあって小貫通伯を名乗った。異説として、秀郷より4代藤原公通の三男通近を小貫氏の祖とするものもある。
小貫頼久は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。佐竹氏の家臣。出羽国久保田藩家老。外交交渉に優れ南方三十三館攻略を実現して佐竹常陸支配に貢献している。
様々な名家の始祖として引用されるのは大功有名のためだろう。小貫一族は各地で中堅武士あるいは家宰として活躍している。
水戸藩の志士・義民たる小貫氏
小貫藤介 - 行方郡羽生村の百姓。天狗党に属し転戦するも越前国敦賀にて斬首となる。慶応元年(1865年)2月15日。享年23。靖国神社合祀。小貫礒衛門 - 行方郡矢幡村の百姓。天狗党の林五郎三郎勢に属するも捕えられる。慶応2年(1866年)3月10日、水戸で獄死する。享年47(54とも)。靖国神社合祀。
小貫芳松 - 行方郡矢幡村の百姓。天狗党に加わるものがれて潜伏中、常陸麻生藩兵に捕えられ、慶応元年(1865年)5月3日、水戸で斬られる。享年27。靖国神社合祀。
小貫善兵衛 - 那珂郡下江戸村の百姓。諱は道房。慶応元年(1865年)1月2日、下総国関宿で獄死。享年42(44とも)。靖国神社合祀。
小貫仁兵衛 - 那珂郡下江戸村の郷士並 小貫藤蔵通房の長男。諱は昌蕃。天狗党の乱では郡宰 真木彦之進勢に属し、元治元年(1864年)9月19日、茨城郡小泉村で討ち死にする。享年36。靖国神社合祀。
小貫源兵衛 - 町与力。諱は道信。天狗党に属して捕えられる。慶応2年(1866年)8月13日、武蔵国忍[要曖昧さ回避]にて獄死。享年50。靖国神社合祀。
小貫芳松 - 行方郡矢幡村の百姓。天狗党に加わるものがれて潜伏中、常陸麻生藩兵に捕えられ、慶応元年(1865年)5月3日、水戸で斬られる。享年27。靖国神社合祀。
小貫善兵衛 - 那珂郡下江戸村の百姓。諱は道房。慶応元年(1865年)1月2日、下総国関宿で獄死。享年42(44とも)。靖国神社合祀。
小貫仁兵衛 - 那珂郡下江戸村の郷士並 小貫藤蔵通房の長男。諱は昌蕃。天狗党の乱では郡宰 真木彦之進勢に属し、元治元年(1864年)9月19日、茨城郡小泉村で討ち死にする。享年36。靖国神社合祀。
小貫源兵衛 - 町与力。諱は道信。天狗党に属して捕えられる。慶応2年(1866年)8月13日、武蔵国忍[要曖昧さ回避]にて獄死。享年50。靖国神社合祀。