『この間すべてを唯物的に取運ばんとするソ連は、今日アメリカと世界的に對抗し、眞のデモクラシーを呼號しつつ、實はナチと大差なき共産黨幹部の專制方式をとり、一般國民には多く實情を知らしめない全体主義に近づいているが、日本共産黨はみづからこの先例に從つて全体主義的行動をとりつつあるにかかわらず、眞の自由、眞のデモクラシーの發展をもたらさんとする正しき統制主義を逆に「全体主義」「フアツシヨ」等と惡罵しているのである。』
『今日統制主義の体制をとらねばならぬことはいづれの國も同樣である。ただアメリカのごとき富裕なる國においては、最小の制約を加えることによつて、いよいよ自由をのばし得るが、しからざる國においては制約の程度を強化せざるを得ず、そこに國民全体のデモクラシーを犧牲にし少數の指導者群の專制におちいる危險が包藏されるのである。イタリア、ドイツ、日本等が全体主義に後退し、遂にそのイデオロギーを國家的民族的野心の鬪爭の具に惡用するに到つたのは、ここにその最大の原因が存したのである。』
石原莞爾は病床にあって昭和21年に記者マーク・ゲイン(日本語のわかる亡命ロシア人)に次のように語っている。
「私は支那とは和平できたと思っている。われわれは東亜連盟に非常に確信を持っていた。その精神を中国民衆に浸透させることができたら、戦いを終ることはできた。東亜連盟は終始非侵略主義だった。連盟は、中国が満州国を承認さえすれば、日本軍隊は中国から撤退しうると論じた。蒋介石は相互に結末をつける段どりとなっていたから満州国を承認しただろう。私は終始、中国本土から撤退し、満州国をソ連との緩衝地帯にせよ、との意見だった。勿論我々はソ連と戦う意志はなかった」その彼がなぜ現役を引かざるえなかったのか。そこが対中政策の基本的な疑問である。日本の目的は侵略ではなく東亜の啓蒙管理だったのである。しかし深入りし過ぎた。
さらに
最後に、「日本の敗因は何ですか」と聞かれたときは、はっきりとこう話した。
「日本の真の敗因は、民主主義でなかったことだ。特高警察と憲兵隊のおかげで、国民はいつも怯えていた。しかしこれらの警察力が、今除去されたということが、ただちに日本の民主化を意味するものではない。が秘密警察が破壊された以上、マッカーサーは日本人の手で追放を行わせるべきである。総司令部のやり方を見ていると、どうも信用できない人たちの情報に頼っている、というのが現状だ。新聞関係のあなた方などが総司令部が真実を知りうるように、大いに助力されることを、私はお勧めする」
石原はわかりやすく民主主義がなかったと言っているが、民主主義がないことは、石原の考えでは国力、資金、技術のハードパワー、人力のソフトパワーで選択肢が少なかったということ。すなわち格段に米英に比べて国が貧乏だったということにほかならない。其の上で統制主義と言っている。ソ連の本質については全く予見分析の通りに歴史が本性を暴き出した。気の毒なのは意味もなく死んでいったロシア国民、其の子分となった中国国民である。
と語ってこの世を去っている。明治33年(1900)11月にロシアと清国との間で第二次露清密約が結ばれ満洲がロシアの勢力圏となったことを蒋介石が継承していることをこの人は死ぬまで知らなかったのであろうか?
石原莞爾の遺書は全体主義と統制主義を明確に区別しながら、國の生存条件を探していた。しかし日本国は自ら生存条件を選ぶことはできなかった。単独講和によってただ経済的独立と政治的従属を得たに過ぎぬ。天皇を中心とする國體を残す代わりに、たった一つの選択、従属の裨益者の道を選んだのだ。米国の下の統制主義は石原莞爾の予言どおり見事に残されたことは周知のとおり。中国戦線を泥沼に拡大するという罠は米ソが組んだものだ。蒋介石など傀儡に過ぎない。
『今日統制主義の体制をとらねばならぬことはいづれの國も同樣である。ただアメリカのごとき富裕なる國においては、最小の制約を加えることによつて、いよいよ自由をのばし得るが、しからざる國においては制約の程度を強化せざるを得ず、そこに國民全体のデモクラシーを犧牲にし少數の指導者群の專制におちいる危險が包藏されるのである。イタリア、ドイツ、日本等が全体主義に後退し、遂にそのイデオロギーを國家的民族的野心の鬪爭の具に惡用するに到つたのは、ここにその最大の原因が存したのである。』
石原莞爾は病床にあって昭和21年に記者マーク・ゲイン(日本語のわかる亡命ロシア人)に次のように語っている。
「私は支那とは和平できたと思っている。われわれは東亜連盟に非常に確信を持っていた。その精神を中国民衆に浸透させることができたら、戦いを終ることはできた。東亜連盟は終始非侵略主義だった。連盟は、中国が満州国を承認さえすれば、日本軍隊は中国から撤退しうると論じた。蒋介石は相互に結末をつける段どりとなっていたから満州国を承認しただろう。私は終始、中国本土から撤退し、満州国をソ連との緩衝地帯にせよ、との意見だった。勿論我々はソ連と戦う意志はなかった」その彼がなぜ現役を引かざるえなかったのか。そこが対中政策の基本的な疑問である。日本の目的は侵略ではなく東亜の啓蒙管理だったのである。しかし深入りし過ぎた。
さらに
最後に、「日本の敗因は何ですか」と聞かれたときは、はっきりとこう話した。
「日本の真の敗因は、民主主義でなかったことだ。特高警察と憲兵隊のおかげで、国民はいつも怯えていた。しかしこれらの警察力が、今除去されたということが、ただちに日本の民主化を意味するものではない。が秘密警察が破壊された以上、マッカーサーは日本人の手で追放を行わせるべきである。総司令部のやり方を見ていると、どうも信用できない人たちの情報に頼っている、というのが現状だ。新聞関係のあなた方などが総司令部が真実を知りうるように、大いに助力されることを、私はお勧めする」
石原はわかりやすく民主主義がなかったと言っているが、民主主義がないことは、石原の考えでは国力、資金、技術のハードパワー、人力のソフトパワーで選択肢が少なかったということ。すなわち格段に米英に比べて国が貧乏だったということにほかならない。其の上で統制主義と言っている。ソ連の本質については全く予見分析の通りに歴史が本性を暴き出した。気の毒なのは意味もなく死んでいったロシア国民、其の子分となった中国国民である。
と語ってこの世を去っている。明治33年(1900)11月にロシアと清国との間で第二次露清密約が結ばれ満洲がロシアの勢力圏となったことを蒋介石が継承していることをこの人は死ぬまで知らなかったのであろうか?
石原莞爾の遺書は全体主義と統制主義を明確に区別しながら、國の生存条件を探していた。しかし日本国は自ら生存条件を選ぶことはできなかった。単独講和によってただ経済的独立と政治的従属を得たに過ぎぬ。天皇を中心とする國體を残す代わりに、たった一つの選択、従属の裨益者の道を選んだのだ。米国の下の統制主義は石原莞爾の予言どおり見事に残されたことは周知のとおり。中国戦線を泥沼に拡大するという罠は米ソが組んだものだ。蒋介石など傀儡に過ぎない。
それを理解するには、第二次大戦の前史となる第一次大戦の戦後処理を見て理解することが必要となる。長く日本は米国と関税自主権をふくむ平等条約が実現できなかった。明治11年に通商修好条約が改定されるが、関税自主権の実施には至らず、1911年(明治44年)日米通商航海条約改正によりやっと実現する。つまり其れまでの間、日本は米国から見て土民の島と変わらない文明外の産業力の非力な国(ハワイのようなもの)とみなしていたのだ。理解をするのに33年もかかったのは、語学力や文化度の問題ではない。ひとえに米国人の日本人に対する偏見である。米国の戦略に日本が関係してくるのは、第一次大戦後の戦後処理、ワシントン会議以降である。其の証拠に1909年11月には高平・ルート協定が締結され、日本による満州・朝鮮支配と、アメリカによるフィリピン・ハワイ支配は相互に承認されているのだ。
協定締結時のワシントンにおける石井菊次郎とロバート・ランシングによる記念写真
日本の中国大陸での特殊権益を認めた1917年協定締結時のワシントンにおける石井菊次郎とロバート・ランシングによる記念写真(石井ランシング協定は相互権益承認の象徴的成果だった。どことなく違う方向を向いて写っているのが意味ありげである)
にもかかわらず、赤道以北旧ドイツ領南洋諸島の委任統治国となってから、米国にとって日本は太平洋で共存できない仮想敵国(日英同盟解消=アングロアメリカの敵)となる。それからの20年間は日本を世界の悪に仕立てる米英そしてスターリン参加により世にも邪悪な計略にはめられるの20年となる。
世界が塗り替えられた年 パリ講和会議
1919年(大正8年)、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した理念に基づいてパリ講和会議が開催される(日本全権は、西園寺公望・牧野伸顕ら)。5月山東省のドイツ利権が日本に継承されることが了承され、また赤道以北旧ドイツ領南洋諸島の委任統治国を日本に決定された。 これによりアメリカは日本を仮想敵国とみなすようになり、日本が得た山東省の利権に反対して、アメリカの上院はヴェルサイユ条約の批准を拒否した。そうしてイギリスを抱き込んで日英同盟を破棄させ、日本を追い込む戦略を開始した。
1921年(大正10年)にはワシントン会議が開かれ、1923年に日英同盟が解消された。
このワシントン会議からさらに30年経過して、その間に大戦争をひとつ終え。講和条約調印。形式的独立の1952年4月28日、1年後1953年に締結された日米地位協定には米国の財産を差し押さえる捜査権限【権限はある】は行使しないと明確に記されている。それでは関係を断絶せずにどう機能させるか?
それが今日「日米合同委員会」という選挙によって選ぶことのできない代表たちの隣席の場を通して決定される(あくまでも形式)、実質的優越法制たる日本の上部システムだ。
この支配構造は、砂川裁判以来、憲法がこの国の最高の法規であることを公式に拒み続けている。
実のところ、「日米合同委員会」は米国にとっては重要なものではない。子会社ボードみたいなものだ。
鳩山由紀夫は今ごろ対談でこんなことを言っている。自分の祖父一郎に起こったことが、どういう意味かわかってないのか?彼の場合、馬鹿と大馬鹿が紙一重だね。自分がはまる隙間があればクリミアでも沖縄でもどこでも尻を突っ込む。どんな高邁な意図があろうとも、自ら強者の策に落ちることを知っててやるゲスな政治家だね。
《―まずは鳩山さんに、矢部さんの本を読まれた率直な感想から伺いたいのですが?
鳩山 正直申し上げて“ぶったまげた”というか、矢部さんがここまで勇気を持って取材され、この本を書かれたことに敬服しました。先にこの本を読んでいれば、私も総理を辞めずに済んだかもしれない、と(笑)。
もちろん、私は自分の非力について言い訳する気はありません。総理として一度は沖縄県民に期待感を与えながら(県外移設を)実現できなかったのは私に大きな責任があります。
ただ、この本を読んで、当時、自分がもっと政治の裏側にある仕組みを深く理解していれば、結果が違っていた部分もあるのかなとは思いました。それだけに、自分が総理という立場にありながら、この本に書かれているような現実を知らなかったことを恥じなきゃいかんと感じるわけです。
矢部 鳩山さんは以前、インタビューで「官僚たちは総理である自分ではなく『何か別のもの』に忠誠を誓っているように感じた」と言われていましたが、その正体がなんであるか、当時はわからなかったのでしょうか?
鳩山 物事が自分の思いどおりに進まないのは、自分自身の力不足という程度にしか思っていませんでした。本来ならば協力してくれるはずの官僚の皆さんには、自分の提案を「米軍側との協議の結果」と言って、すべてはね返されてしまって。分厚い壁の存在は感じながらも「やっぱりアメリカはキツイんだなぁ」ぐらいにしか思っていなかった。その裏側、深淵の部分まで自分の考えは届いていなかったのです。
しかし、矢部さんのこの本はもっと深いところで米軍と官僚組織、さらには司法やメディアまでがすべてつながって一体となった姿を見事に解き明かしてくれて、いろんなことが腑(ふ)に落ちました。この本を読んで、目からうろこが何枚落ちたかわからないくらい落ちましたね。
矢部 在日米軍と日本のエリート官僚で組織された「日米合同委員会」の存在は、当時ご存じなかったということでしょうか?
鳩山 お恥ずかしい話ですが、わかりませんでした。日米で月に2度も、それも米軍と外務省や法務省、財務省などのトップクラスの官僚たちが、政府の中の議論以上に密な議論をしていたとは! しかもその内容は基本的には表に出ない。
私が総理の時にアメリカから「規制改革をやれ」という話があって、向こうからの要望書に従って郵政の民営化とかがドンドンと押しつけられた。そこで「この規制改革委員会はおかしいぞ」というところまでは当時もわかっていたのですが。》
矢部浩次氏によると
《「官僚というのは法律が存在基盤ですから、下位の法体系(日本の国内法)より、上位の法体系(安保法体系)を優先して動くのは当然です。裁判で負ける側には絶対に立たないというのが官僚ですから、それは責められない。
しかも、この日米合同委員会のメンバーがその後どうなっているかを調べてみると、このインナー・サークルに所属した官僚は、みなそのあと、めざましく出世している。
とくに顕著なのが法務省で、省のトップである事務次官のなかに、日米合同委員会の元メンバー(大臣官房長経験者)が占める割合は、過去17人中12人。そのうち9人は、さらに次官より格上とされる検事総長になっているのです」
日米合同委員会の構成メンバー
米側代表は在日米軍司令部副司令官
代表代理として在日米大使館公使、在日米軍司令部第五部長、在日米陸軍司令部参謀長、在日米空軍司令部副司令官、在日米海軍司令部参謀長、在日米海兵隊基地司令部参謀長
日米合同委員会の
日本側代表は外務省北米局長で
代表代理は、法務省大臣官房長、農林水産省経営局長、防衛省地方協力局長、外務省北米局参事官、財務省大臣官房審議官》