公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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書評「高級な友情 小林秀雄と青山二郎」 野々上 慶一 著

2015-08-18 11:09:00 | 今読んでる本

これを読むと不景気な昭和の初め頃に、知識と個人の独立を目指して文學を苦闘した若者たちがいた。小林秀雄、河上徹太郎、青山二郎らがモガキ、他人の金(田河水泡というのが面白い)を当てにまでして活字に残す文士の自由障壁を取り払おうとした。
それこそ後に文藝春秋に引き継がれる『文學界』だったことがよくわかる。

野々上慶一*がここで述懐するには、「小林秀雄さんと初めて会ったのは、忘れもしない昭和八年秋。場所は牛込神楽坂、「紅屋」二階の喫茶室で、洒なしだった。」

半ば無理矢理に中断していた文學界を小林に押し付けられたのが本当のところじゃないだろうか。この辺りからどうも小林秀雄の金銭の出処に関するおかしなところが見え隠れする。小林秀雄は十分に知っていた。
創刊号こそ、室生犀星、井伏鱒二、楢崎勤、阪本越郎、舟橋聖一、西脇順三郎【ノーベル文学賞候補者】、谷川徹三、堀辰雄、永井龍男、岡田三郎、山下三郎【戦後、山下汽船の社長に】、阿部知二など注目を浴びる執筆陣だった雑誌もすでに売れないことは証明済みだった。それでも押し付けた小林の他人の懐人生はこのあたりに原型があるのかもしれない。

若い感性と野心を持つ者が社交場を持つことが何時の世も重要。花街や安アパートが知識と個人の独立を世間に宣言する若いものたちの居場所であることは、今も変わらないはずだが、ハイカルチャーと広告モデルの商業雑誌が全盛の現代、いわば世間を敵に回すサブカルチャー雑誌はもう生まれてこないのだろうか。今の若いものたちの居場所はどこなのか?全くと言っていいほど情報がない。

小林秀雄の軽蔑するものは、子供と紳士とある。軽蔑語として、子供だ、紳士だと騒ぎ立てるのがその頃の小林秀雄の戦略なのだろう。世間を知らないのが子供であり、世間を知ったふうな顔をしているのが紳士となる。自分自身の立場は都合により世間と対立させたり、世間風を吹かせたり自在なわけで、ご都合がよろしい。感じるものには、敏感で、熱く推薦するただし感じられないものにはスコブル鈍感なのだ。だから青山二郎は絶好の師匠であり、友人であり得た。

昭和六年、本郷東大正門前に開業した古書店兼出版社・文圃堂。売り場面積三坪余り、主人は二十一歳になったばかりの青年。中原中也の『山羊の歌』、最初の『宮沢賢治全集』を出版、第二次「文學界」の発行所となったが、僅か六年にして廃業。しかし、若者は昭和文学史を彩る多くの文学者達に愛された。小林秀雄、青山二郎、河上徹太郎、そして吉田健一。昭和の知的青春に揉まれ成長した、個性際立つ一出版人の貴重な証言 。

もちろん昭和の裏側も見ておく必要がある。小林秀雄の父親豊造は$大正10年に早死にするが、戦時中日本ダイヤモンドはどんな仕事をしていたのか。この会社と創業者の息子小林秀雄との関係は戦時中どうだったのか。青山二郎に影響されたとはいえ、なぜ骨董などを買う元手金が小林にあったのか。このころは骨董屋として小林秀雄を捉えた方がよくわかる。その辺りはギター作家のページが詳しいので、そちらに譲ります。$小林豊造(こばやし とよぞう、1874年 - 1921年3月20日)は、日本の技術者、経営者。 兵庫県出身。ダイヤモンド研磨技術を欧州に学び日本に初めて導入し起業した。また蓄音機のルビー針など多くの技術を開発した。文芸評論家小林秀雄の父。
戦後左傾化した世間を敵に回す少数派諸君のバックは誰だったのか。興味深い。
ヒントは旧制一中時代の同期で昭和研究会メンバーの迫水久常【美濃部洋次、迫水久常、加瀬俊一ら「官界の一中三羽烏」】




三浦義一


橋渡しとした、社団法人「日本金銀運営会」を仕切った三浦義一との接点、おそらく金銀宝飾品の戦中供出の時点で三浦は日本ダイヤモンドは接点を持っているだろう。運営会拠点は日本橋室町の通称ライカビル4階にあった。

◆ おくやみ ◆2023年7月8日、荒井忠三郎さんは96歳で亡くなった。この年の4月上旬に重い肺炎を発症し、命も危ぶまれる状態で入院。驚異的な生命力で、いったん短い会話ができるまでに回復したが、退院はかなわず、最後は「眠るように、穏やかに亡くなった」という。「プラチナは、荒井工業が亜細亜産業から受け取った『口止め料』だったのではないか」と、単刀直入に尋ねた。すでに90歳代半ばになっていた荒井は体力も落ち、自宅のベッドで横になっている時間が多かった。下山事件口止めプラチナの受け取りは闇に消えた。柴田は「下山事件 最後の証言」(祥伝社、以下「最後の証言」)の著者だ。自身の亡き祖父が幹部として勤めた「亜細亜産業」が組織ぐるみで事件に関与したとする他殺説を、600ページ近く(文庫版)にわたって展開した一冊である。亜細亜産業時代の祖父を知る身内の証言を丹念に集め、膨大な関係者取材と文献調査で脇を固めたノンフィクションの大作は、2006年の日本推理作家協会賞(評論その他の部門)に輝いた。2015年には長編小説「下山事件 暗殺者たちの夏」も、同じ出版社から上梓。1949年に初代国鉄総裁・下山定則(当時47歳)が命を落とした「昭和史最大のミステリー」こと下山事件に、現代で最も精通する専門家は、間違いなく柴田だ。

 彼を訪ねた2022年当時、僕は15年以上にわたって取材してきた下山事件の 証言者・荒井忠三郎が語った内容 の裏付けに取り組んでいた。


三浦はおそめにも惚れた弱み、小林とも切り難い縁がある。それと今日出海【初代文化庁長官】との神戸一中同期つながりのある白洲次郎、他方で東京帝国大学仏蘭西文学科のつながりのある小林秀雄とダブルの仲介関係にある。今兄弟はどっちも裏がありそうだ。

そもそも白洲次郎と三浦義一は表向き戦後の深い関係だ。戦前は駐日大使だったジョセフ・グルー国務次官と迫水久常、吉田茂ら符牒ヨハンセンルート、ヘンリー・スティムソン陸軍長官、フランク・イノックス海軍長官(1944年4月28日急死)チャールズ・ウィロビー(CIA創設者)彼らの手先として二人は動きまわった。
誰もが忘れてしまったこれらの米役人が開戦前から工作した様々な軍事作戦(真珠湾、東京空襲、原爆投下)、財産収奪と”援助”、「復金」は巨大な利権を副産し、日米贈賄祭りと化したが、1948年6月昭和電工事件露見以降、「復金」利権は闇に隠れた。「破壊した後に創造せよ」という古来の教えそのままに日本は破壊され、入れ替わり立ち代わり好き勝手に”創造”された。変化はGHQから始まりGS→G2、1947年ソ連封じ込めのトルーマン・ドクトリンにより日本の役割が変わる、米国が動きドレーパー陸軍次官1948年3月20日賠償調査団団長来日、ジョセフ・F・ドッジ=トルーマンによる緊縮と国民からの収奪強化(表向きはインフレ退治)が進む中、(街に1年前から大流行していた東京ブギウギが流れるころ)、1948年12月1日にアメリカ政府が SCAP に指示した「経済安定9原則」の第6項外国貿易管理の改善と外国為替管理の強化が指示された。
「9原則」は,アメリカ政府の新たな対日政 策(1948年10月国家安全保障会議採択 NSC13-2)に基づき日本経済の 復興を目的にアメリカ政府が SCAP に行った指示である。
1948年クリスマスイブ特赦で日本人側エージェントの基礎がでた。年が明けて兵庫などで朝鮮人と労組騒動で世の中が騒然とする中(1949年6月国鉄発足、メチルウイスキー死亡事件発生、7月下山事件が起きる。)ややして、1951年J.F. ダレスとジョン・ロックフェラー3世が来日してユダヤの格言「破壊した後に創造せよ」は完成した。


日本独立から半年もしないころ、1952年に小林は今日出海と一緒に海外に半年余り旅行をしているが、この資金もまたどこが出したのか興味深い。1953年帰国を出迎えた友人たちに向かって『過去はもうたくさんだ。』というあたかもタムマシーンに乗って未来から帰ってきたかのような帰国時の科白が、小林秀雄の日本決別の立場を物語る。青山二郎ともなんとなく具合が悪くなってゆく。純に思い出を書き綴る野々上慶一が悲しい。


「誹謗中傷よりも酷いことがひとつある。それは真実だ。」シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
^ ハワード・ショーンバーガー、占領1945~1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人、時事通信社、1994年、32ページ
^白洲の親友、木内信胤(1946.9公職追放)は『外資導入懇談会』のトップ、同会は旧対外債務を保証し、戦争損害賠償を手配し、外資への税を軽減することによって、海外からの投資を促すための公的機関であった。 The Oriental Economist, January 7, 1950.
^SCAP は,メモランダムの公布から60日以内に外国為替管理委員会を 組織するよう日本政府に指示した。3月16日に「外国為替管理委員会 令」が公布され,同日,総理府の外局として外国為替管理委員会(Foreign Exchange Control Board、FECB)が設置された。【「大蔵省渉外特報(第121号)ライダー中佐との会談記録」昭和24年2月2日(旧大蔵省資料)】
^判決後、ウィロビーは帰国の挨拶にやってきたオランダ代表のベルト・レーリンク判事に「この裁判は史上最悪の偽善だった。こんな裁判が行われたので、息子には軍人になることを禁止するつもりだ。なぜ不信をもったかと言うと、日本がおかれていた状況と同じ状況に置かれたのなら、アメリカも日本と同様に戦争に出たに違いないと思うからだ」と、語っている。

*野々上 慶一(ののがみ けいいち、1909年12月11日 - 2004年8月2日)は、出版人、随筆家。

貴族院議員の長男として山口県に生まれる。1930年に左翼運動のシンパとして逮捕起訴され、1931年に早稲田大学専門部政経科を中退、同年春に父の出資で本郷の東大前に古本屋・文圃堂を開業し、1933年から書籍出版を手掛ける。1934年同人誌『文學界』の刊行を引き受ける。同年から草野心平に企画を持ち込まれて当時中央文壇で全く無名だった宮沢賢治の最初の全集(3巻本)を刊行。1936年廃業、小林秀雄、河上徹太郎、吉田健一、永井龍男、青山二郎ら文化人たちとの親交が続いた。骨董鑑賞家として古陶磁、古版画関係の著書もある。


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謀議が開かれていた有馬温泉の旅館「池之坊満月城」(68年消失)を白朗は急襲した。白朗は語る。

「われわれは、和服姿の三人だった。同道したのは植芝盛平、それに嫡男の吉祥丸で、二人はいわずと知れた合気道の達人だ。当日の午後、会合場所だという旅館の部屋のドアを問答無用で開けると、六、七人がいっせいに顔を向けた。背広を着た連中が長いテーブルを囲んでいたが、よほどびっくりしたのだろう、茶わんをひっくり返した者もいた。右側に岸信介と児玉誉士夫。その両脇に三浦義一(注2)と矢次一夫(注3)。向かいあって韓国人らしい者が三、四人いた。こういうときは相手の顔ぶれ、顔つきを見ればピーンとくる。ハハーン、やはり竹島のことだなと思った。おれは腹の底から声をあげた。

矢次一夫

<なんの相談か! 竹島のことでなにやら企んでいるならば、ここから帰すわけにはいかん!>

岸らはすぐに立ち上がったよ。逃げるように部屋を出ていった。堂々とした相談事であれば、説明すればいいではないか。あっという間に勝負はついたということだな」

白朗に同行していた植芝盛平は、これまでにも何回か触れた合気道の創始者で当時、77歳。前年に紫綬褒章を受章し、ハワイ合気会の招きにより渡米、ハワイ各地で演武指導を行って帰国したあとだった。息子の吉祥丸(のち合気会二代目理事長)は40歳で、血気盛んな活動家だった。

その場にいた岸と児玉、そして三浦の3人はいずれも戦犯免責と引き換えにGHQと密接な協力関係を結んでいた間柄だ。矢次もまた、公職追放が解除された後に政財界や労働界の黒幕として活動し、日本・韓国・台湾を結ぶ反共連盟の強化を目指して動いていた。57年に日韓会談再開のための秘密交渉を行い、58年には個人特使として岸首相の親書を手に訪韓、李承晩大統領と会見するなど日韓の裏ルートとして暗躍していた。

この日韓の密談の場を襲撃し、大見えを切ったというのはいかにも白朗らしい武勇談だ。


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