公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

関西貿易社 開拓使 北海社 民是 今読んでる明治十四年政変

2021-04-25 09:26:00 | 日本人
写真は旧天寧駅付近東釧路の1977年ごろ

『五代友厚らが立ち上げた「関西貿易商会」が、北海道の物産を一手に引き受ける約束を開拓使と交わしたのだという。「関西貿易商会」に開拓使の官吏も天下ること、さらに開拓長官の黒田清隆にもその可能性があることを指摘する。  問題は、価格である。地価を含め約一二~一三万円の東京の物産取扱所を三万円、約七~八万円の貸倉を七〇〇〇円で払い下げ、しかも無利息三〇年賦であるという。いわずもがな、これらは人びとの税金から建造された施設である。しかも、開拓使には一〇年にわたり、一三〇〇~一四〇〇万円の税金が使われてきた。『東京横浜毎日新聞』は、こうした背景を踏まえ、払下げではなく、「無代給与」であると、これを批判した(七月二七日付)。』
当時の1400万円は3万倍の価値があったろうから4200億円くらいかな。物価ではなく国家予算を比べるとそれでは少ないかもしれない。明治十四年の歳入は7400万円だから累計とはいえ20%に達する。身の丈に比べてもいかに巨額の投資であったかがわかる。
ちなみに本邦最初の予算公表は「大隈は、歳入4,873万円に対し歳出4,659万円で、歳入超過214万円であるという明治6年予算歳入出見込会計表を公表し、新聞などに掲載するほか、府県を通じて公表しました。」(地租改正直前)と国税庁のホームページにある。

それでも欲しかった厚岸の価値はどこから来るものかは前田正名の製紙業投資と非三菱系の投資による硫黄開拓の推移を見れば良い。

以上咎なき明治十四年政変は遅れてきた有能な実務世代五代と前田(ともに薩摩藩士だが後者は政経非主流派の農本主義) 大隈 島 副島といった維新後肥前新興勢力の経済力を伴う巻き返し(三菱の敵)と伊藤が見たことを故とする反作用(国会開設と憲法制定という国家イベントを控えたタイミングでの薩長の再集合 財閥三菱の政経支配の確立)だったとも言える。

関西貿易社
Wikipedia 
近年、住友資料館において、関西貿易商会の経営者の一人である五代友厚の当時の弁明書が見つかった。そこには、実際の官有物払い下げ先のそのほとんどは、開拓使官吏で結成する北海社であり、関西貿易商会においては、岩内炭鉱厚岸の山林の2件だけであると記されている。そして、この事実に関しては、政府要人からの要請により、公には弁明することを断念したという旨の記述も見つかっている[2]

『明治一四年五月、五代・前田が中心となり、関西における直輸出商会として関西貿易社が設立された。彼らは、北海道物産の中国輸出を営業の中心に据え、後述する北海社と連携する』
北海社は開拓使事業継承組織

『開拓使の経営は、かつて西郷隆盛も考えたものであった。また、官営事業の推進による殖産興業政策は、大久保利通の考えと符合した。黒田清隆にとって、開拓使の事業を強化することが西郷・大久保から続く薩摩グループの悲願であり、それはまた富国強兵に結実すると信じていた。
  しかし、明治一五年をもって開拓使一〇年計画が終了することは、動かしがたい事実であった。明治一四年五月下旬に計画どおりの開拓使廃止を決定した三大臣は、参議の寺島宗則を通じて黒田にそれを伝えた。黒田の様子は、「深く憤るが如くなりしかども、遂に奉命するに至れり」という具合であった(『明治天皇紀』五)。 
 七月に入ると、開拓使大書記官の安田定則、開拓使書記官の鈴木大亮・折田平内・金井信之という薩摩グループの四人が、払下げに関する意見書を黒田に提出した。その内容は、炭鉱と鉄道を除く官業を一括で払い下げようというものであった。その払下げ先が、安田・折田が設立した北海社であった。安田らは職を辞して、北海社の経営に従事することを表明した。』「明治十四年の政変より」


「関西貿易社」は、1881年明治14年5月創立された商社である。概要 資本金100万円(内50万円は五代友厚他22名の発起人が出資、残りを公募)、本店大阪、役員は総監が五代友厚、副総監が住友総理の広瀬宰平 設立目的はアジア貿易拡張で、半官半民の貿易商社である広業商会との協業も計画。1883年解散(『五代友厚伝記資料』第4巻)
以下レファレンス情報
『関西貿易社について以下の資料に記載があります。
・『五代友厚伝記資料 第3巻 鉱山・工業・商社・交通』(日本経営史研究所/編 東洋経済新報社 1972)
「商社」の部の「二 関西貿易社」(p.349-352)で、次のように記されています。
「明治十四年六月三日、五代は広瀬宰平、杉村正太郎、中野梧一、阿部彦太郎、藤田伝三郎、田中市兵衛らとはかり、資本金百万円の関西貿易社を創立した。本社を大阪靭北通一丁目三番地におき、五代が総監、広瀬が副総監となった。同社の目的は、当初は清国への直輸出にあって、政府の出資も期待されていたようである。」
「しかしこの年[明治14年]の夏、いわゆる開拓使官有物払下げ問題が勃発して関西貿易社は在野民権論者の舌蜂の矢表に立たされたため、結局、北海道貿易からは一切手をひかざるを得なくなった。(中略)十六年四月には解散に至るが、詳細は不明である。」(p.349)
p.368-407には、同社関係史料20点が掲載されています。』

何故民是というのか

社名の「グンゼ」は創業時の社名「郡是製絲株式會社」に由来する。「郡の是」とは、国の方針である国是、会社の方針である社是のように、創業地の何鹿郡(現・京都府綾部市)の地場産業である蚕糸業を、郡(地域)を挙げて振興・推進していこうという元農政官僚で殖産興業の父と呼ばれた前田正名の趣旨に基づいている。

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前田正名の地方産業振興策と地域形成:「五二会資料」の分析からMasana Maeda as a powerful organizer of Japanese traditional industries, his regional development policies and the regional formation, based on inspection of Go-Ni-Kai documents
山根 拓Yamane Hiroshi
富山大University of Toyama
前田正名は近代日本の産業地域形成に大きく寄与した人物である。彼はその生涯の前半に政府官僚の立場でわが国の地方在来産業の育成振興政策を牽引し、1890年頃に官職を辞して以降は民間の立場から全国の在来産業の指導、育成、振興に心血を注いだ。各地の在来産業振興を目指し、前田行脚と呼ばれる全国巡回指導を頻繁に行った。在来産業振興が国力増強に資するというのが、彼の見通しであった。前田は1890年頃から地方在来産業者の全国組織化を図るため、様々な全国的同業者組織の結成に乗り出す。五二会もその一つである。五二会は前田と京都の在来産業家らを中心に1894年に結成され、その名の五は織物、陶磁器、漆器、金属器、製紙を、二は雑貨、敷物を指す。これらは在来産業由来の伝統的美術工芸品である。五二会は全国各地の産物を一堂に会し、それらの高品質化、生産強化を図るための大規模な品評会であった。美術工芸品の品質向上とそれらの全国的生産流通構造の確立が我が国の輸出貿易振興をもたらし、国力増進を図ることが、五二会会頭の前田の目指すところであった。本報告では、五二会資料(正田1979)の分析を通じ、19世紀末のわが国の在来産業の地域形成や地域編成の実際的側面を解明したい。第1回五二会大会は、1894年4月に京都市で開催された。開会式で前田は、五二会の組織を通じた在来産業振興の論理を次のように展開した。国内在来産業主体が個別に事業を行う現状では当該産業は国際貿易市場での敗北は必至で、結果的に国力は減衰する。国産品が貿易市場で優位性を得るためには国内在来産業の全国的組織化が必要だ。その組織下で国内産地産品間の比較競争を行い国産品の質の向上を図るとともに、事業者の団結と製品輸出系統の統合により外国市場での競争を優位に進める必要がある。五二会はこれら国内産業の統合と団結の中核にある。では、五二会によって国内の在来産業空間はどのように編成されたのであろうか。図1に五二会の府県本部等の分布を示した。五二会中央本部は美術工芸品生産の中心であった京都にあり、各府県には府県本部、事業部、支部が置かれた。県本部等の立地は県庁都市が主だが、五二の在来産業発達地域に立地する場合も見られた。その分布は東北以北で少なく、関東以西(関東、東海、北陸、近畿、山陽、四国、九州)が主であった。この傾向は、旺盛な生産活動の地域指標とも見られる五二会への出品者数にも表れる。図2は、1895年に神戸で開催された第2回五二会大会への出品者の府県別分布を示す。近畿、東海と北部九州への偏在傾向がみられる。これは前田正名が重視した当時の輸出志向型在来産業の生産の卓越した地域を示すものと考えられる。図2の出品者数と出品商品の売却金額・売却点数の地域分布傾向は類似パターンを示すが、後者ではより京阪神、とくに京都への集中傾向が強い。図1と図2から、当時の輸出型在来産業発達の地域的傾向について、京都など関西中心の西日本優位の産業空間構造の存在が判る。五二会等を通じ、前田はこの空間構造を分散的形態から統合的形態へと変革するオーガナイザーの役割を果たそうとした。


前田製紙合名会社1900年(明治33年)に発足した[1]

創業者の前田正名薩摩藩出身の官僚で、農商務省次官などを務め、退官後は貴族院議員となった人物である。1891年(明治24年)前田は殖産興業政策に積極的で、屈斜路湖一帯の皇室所有林(御領林)の森林資源を元にパルプ工場の建設を企画していた当時の釧路町長らに勧誘されてパルプ事業に乗り出すことになった。前田や、前田の知人で敦賀の銀行家大和田荘七京都の紙商中井三郎兵衛大倉財閥の渋谷喜助の三氏が出資し、資本金20万円で合名会社の前田製紙は設立された[2]

パルプ工場の用地は、釧路川河畔で釧路川と別保川の合流地点のやや北にあたる釧路郡釧路町天寧が選ばれた。同地は、釧路川および阿寒川流域の森林から木材を搬入するのに便利であった。工場用水を川の水に求めることができ、石炭硫黄(硫黄は紙の漂白に使われる。)などの物資も周辺の地域で産出されていた。現在の釧路市域に近いことから労働力の確保が容易で、釧路港から製品搬出も可能である、という利点もあった[3]


富士製紙天寧工場は、大正二年春に全焼した。


天寧駅(てんねいえき)は、かつて北海道釧路市貝塚町[1] にあった日本国有鉄道(国鉄)根室本線(貨物支線)の貨物駅である。国鉄の鉄道貨物輸送縮小計画によって1984年(昭和59年)に廃止された。


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