キリスト教もマルクス主義も委任統治も国富信託スキームも絶対構造から見れば皆同じ構造。信託により自分を空に、持っているもの人倫を手放すという絶倫はアングロサクソンの述語疎外=社会破壊病理なのです。
日本の哲学は疎外論とは無縁である。ただひたすらおのれの限界に境界を設ける。限界の外に素心がある。
素心を見つめるには、情動の変化と限界に注意を向けること、限界つまり「もののあわれ」を通じて本質を理解する、言葉を用いても言葉にたよらない心得が必要である。あるいは理の断絶と限界に注意を向けることが肝心。理の限界が妙であり、情の限界が美である。妙や美は素心を映す鏡のようなものであり、妙美は理の断絶と情の臨界を通じて己の幻想性自覚を促す電撃である。
70年代の構造主義ブームは哲学の「発見」(つまり新機軸)ではなく、常に絶対者を作り上げ、構造の奴隷を、信者、活動家、植民地に仕上げる便利な西欧病因の発見ブームにすぎないのさ。最初は婚姻の交換機能構造の「発見」でした。なぜか構造主義は【民主主義という奴隷構造】を「発見」していない。
自分が空っぽになると共に上昇(アセッション)するというニューエイジの絶倫構造主義は哲学の病理解剖者ヘーゲルの言葉を辿るだけでそれがわかるはず。ヘーゲルは口頭のみで報酬主張を学問的に偽装した人物の嚆矢であり、ドイツ批判哲学のグルである。
Vernunft(理性)は神の反照(Widerschein Gottes)、絶対者についての知であり、Verstand(悟性)は有限のものや相対的なものについての知識である。
引用以下のブログを見つけたので定期巡回しておこう。
ベートーヴェン(1770-1827)ヘーゲル(1770-1831)も同じ年に生まれている。
どっぷりヘーゲル素読に浸かっていた学生時代に気づいてしまったのだが、ヘーゲルのリズムはベートーヴェンの第七交響曲を聴いているとなんとなく両者が同じものであることがわかってくる。
以下の本も読んでみたいがアドルノの翻訳書はみな高い。
20世紀ドイツの哲学者、社会学者のアドルノは、「ベートーヴェンの音楽はヘーゲルの哲学そのものである。」(テオドール・W・アドルノ《大久保健治訳》『ベートーヴェン 音楽の哲学』作品社1997)。