埋もれた日本――キリシタン渡来文化前後における日本の思想的情況――和辻哲郎
底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「中央公論」
1951(昭和26)年3月号
入力:門田裕志
校正:米田
2012年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
『室町時代の中心は、応永(一三九四―一四二八)永享(一四二九―一四四一)のころであるが、それについて、連歌師心敬は、『ひとり言』の中でおもしろいことを言っている。元来この書は、心敬が応仁の乱を避けて武蔵野にやって来て、品川あたりに住んでいて、応仁二年(一四六八)に書いたものであるが、その書の末尾にいろいろな名人を数え上げ、それが皆三、四十年前の人であることを省みて、次のように慨嘆しているのである。「程なく今の世に万の道すたれ果て、名をえたる人ひとりも聞え侍らぬにて思ひ合はするに、応永の比、永享年中に、諸道の明匠出うせ侍るにや。今より後の世には、その比は延喜一条院の御代などの如くしのび侍るべく哉」。すなわち応永、永享は室町時代の絶頂であり、延喜の御代に比せらるべきものなのである。しかるに我々は、少年時代以来、延喜の御代の讃美を聞いたことはしばしばであったが、応永永享時代の讃美を聞いたことはかつてなかった。それどころか、応永、永享というごとき年号を、記憶に留めるほどの刺激を受けたこともなかった。連歌の名匠心敬に右のごとき言葉があることを知ったのも、老年になってからである。しかし心敬のあげた証拠だけを見ても、この時代が延喜時代に劣るとは考えられない。心敬は猿楽の世阿弥(一三六三―一四四三)を無双不思議とほめているが、我々から見ても無双不思議である。能楽が今でも日本文化の一つの代表的な産物として世界に提供し得られるものであるとすれば、その内の少なからぬ部分の創作者である世阿弥は、世界的な作家として認められなくてはなるまい。』
室町期を劣った治世と描くのは徳川の血筋コンプレックスであろう。屋形衆をして屋形号与える関東八屋形守護領に後北条が攻め入ることをきっかけに、関東管領の影響下の合従連衡が破れ、北条早雲に始まる戦国以降格式も出自も卑しい覇者たちが社会を打ち壊す兆しが露わとなっていた時代であったことは間違いない。この崩壊のはじまりの時代を描くには小田政治(足利の庶子?)の佐竹氏を同盟に引き入れた天才的動きを追いかけると面白い。この頃には管領職は名誉程度の物となってしまう。世の中は戦に勝つ、実質支配の方を「御屋形様」と認めるようになっていった。
『 群雄のうち最も早いものは、北条早雲である。彼は素姓のあまりはっきりしない男であるが、応仁の乱のまだ収まらないころであったか、あるいは乱後であったかに、上方かみがたから一介の浪人として、今川氏のところへ流れて来ていた。ちょうどそのころに今川氏に内訌が起こり、外からの干渉をも受けそうになっていたのを、この浪人が政治的手腕によってたくみに解決し、その功によって愛鷹山南麓の高国寺城を預かることになった。これがきっかけとなって、北条早雲ほうじょうそううんの関東制覇の仕事が始まったのである。彼が伊豆堀越御所を攻略して、伝統に対する実力の勝利を示したのは、延徳三年(一四九一)すなわち加賀の一向一揆の三年後であった。やがて明応四年(一四九五)には小田原城を、永正十五年(一五一八)には相模一国を征服した。ちょうどインド航路が打開され、アメリカが発見されて、ポルトガル人やスペイン人の征服の手が急にのび始めたころである。』
延徳三年は戦国元年である。8月6日(延徳3年7月1日) - 足利茶々丸が継母円満院と弟の潤童子を殺害して堀越公方の家督を継ぐ。これを後の北条早雲が追放する。明確な貴族に対する反乱が起きた年となる。和辻が指摘した様に不思議なインド神の縁起が熊野や厳島に生まれるのは、民心に超自然で断絶した神話を欲した民衆社会の長い行き詰まりがあったのかもしれない。文化は財物の流通増加無しには産まれ出ない。輸入品に飛びつくのは今も同じ。日本は財物の循環を求め国境を越える治安の喪失に悲鳴を上げていたのではないだろうか。海の活用に優れた守護大名は早くから力をつけて行く。
『 以上の三つの家訓書は、目ぼしい戦国武士がみずから書いたものである。それだけで新興武士階級の思想を全面的に知ることはむずかしいかもしれぬが、しかしここに指導的な思想があったことを認めてもよいであろう。そういう視点を持ちながら、キリシタンの宣教師たちが戦国時代末期の日本の武士たちについて書いているところを読むと、なるほどそうであったろうと肯うなずける点が非常に多いのである。戦国の武士の道義的性格は決して弱いものではなかった。また真実を愛し、迷信を斥け、合理的に物を考えようとする傾向においても、すでに近代を受け入れるだけの準備はできていた。』
私は日本の延徳三年以降は精神的に近代であったと考える。文芸復興期が応永1394年から1427年まで(鹿苑寺(金閣寺)は応永四年棟上げ、一休宗純は応永元年の生まれ、応永は35年まであり大内の謀反応永の乱が治る10年以降は戦乱もなく平和が続く(応永の外寇の応永26年(1419年)の10日ほどの外憂があったが、昭和、明治に次ぐ元号期間の長さが平安だった室町花の御所時代を物語る、平成がこれに該当する50年だとしたらー2038年くらいまでは日本は平和であろう)、永享期1429年9月5日から1441年2月17日までのほぼ五十年が中世文化の頂点で、それからきっちり50年経て戦国時代が始まる。
個別の客観的評価判断がそれまでの貴族権威的伝承価値に勝るという時代を近代の始まりとするならば、西欧ではルター以降が近代である。近代は正直・慈悲・智慧を徳の前提と措かなければ成立しない。
なぜなら我々がごく当然に社会組織経営に必要な方法を選び、より良い世俗社会を実現するためには、正直に「あるはある」という態度で現実に臨まなければ社会の自律自治が得られないからだ。このように個別の智慧を経由した格率を精神に要請するのは近代の精神的前提である。それ故日本においては、延徳三年以降に早くも世俗社会の建設が始まる。東山文化の様な王家の権威が個別の一族の智慧に先行優先するような王権による気ままな王朝復古文化は二度と蘇ることなく日本の古代中世の雅は延徳三年の下剋上とともに終わった、その雅さの形式だけが日本文化に残されたと考えるべきだろう。尚、私は日本にだけ近世(ほぼ江戸時代)という区分があることは、歴史を普遍的に理解する障害と思うので、近世という区分はしない。
『 以上のごとく見れば、応仁以後の無秩序な社会情勢のなかにあっても、ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況は、十分に成立していたということができるのであろう。だから半世紀の間にキリシタンの宣教師たちのやった仕事は、実際おどろくべき成果をおさめたのである。
しかし文化的でない、別の理由から出た鎖国政策は、ヒステリックな迫害によって、この時代に日本人の受けたヨーロッパ文化の影響を徹底的に洗い落としてしまった。その影響の下に日本人の作り出した文化産物も偶然に残存した少数の例外のほかは、実に徹底的に湮滅させられてしまった。したがってあれほど大きい、深い根をおろした文化運動も、日本の歴史では、ちょっとした挿話くらいにしか取り扱われないことになった。』
和辻哲郎は、鎖国がヒステリックな迫害であることとしているが、本当の鎖国の理由は奴隷貿易の阻止であったことが見落とされていた。このように文化だけが歴史ではないが、マインドセットの変更が歴史に先行することを見ておけば、日本の戦国時代は十分に近代の要件を揃えていた。欠けていたのは中央政府だけだった。畿内の権威ではなく実力で支配できる治天者、天下人を待ち続けていた。甲陽軍鑑を引いて和辻は、
具体的には秀吉は
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」
『 以上の四類型は国を滅ぼす大将の類型であるが、それによって理想の大将の類型が逆に押し出されてくる。それは賢明な、道義的性格のしっかりとした、仁慈に富んだ人物である。そこには古来の正直・慈悲・智慧の理想が有力に働いているが、特に「人を見る明」についての力説が目立っているように思われる。うぬぼれや虚栄心や猜みなどのような私心を去らなくては、この「明」は得られないのであるが、ひとたび大将がこの明を得れば、彼の率いる武士団は、強剛不壊のものになってくる。ということは、道義的性格の尊重が彼の武士団を支配するということなのである。この書のねらっている武士の理想は、道徳的にすぐれた人物となるということのほかにはないと思う。
一般に武士の理想を説く場合にも、正直・慈悲・智慧の理想が根柢となっていることは明らかであるが、しかしこの書全体にわたってなお一つの特徴が明白に現われているのを我々は指摘することができる。それは強烈な自敬の念である。前に多胡辰敬の家訓のなかから、おのれを卑下すればわが身の罰が当たるという言葉を引いたが、この心持ちはこの書では非常に強く説かれている。特に武道、男の道、武士道などを問題とする場合に顕著である。これらの言葉は本来は争闘の技術を言い現わしていたのであるが、そこに「心構え」が問題とされるようになると、明白に道徳的な意味に転化して来る。そうしてそこで中心的な地位を占めるのは、自敬の念なのである。おのれが臆病であることは、おのれ自身において許すことができぬ。だからおのれ自身のなかから、死を怖れぬ心構えが押し出されてくる。そういう人にとっておのれの面目が命よりも貴いのは、外聞に支配されるからではなく、自敬の念が要求するからなのである。同様に、おのれの意地ぎたなさや卑しさは、おのれ自身において許すことができぬ。だからここでもおのれ自身のなかから、男らしさの心構えが押し出されてくる。廉潔を尚とぶのは、外聞のゆえではなくして、自敬の念のゆえである。こうして自敬の念に基づく心構えが、やがて武道とか男の道とかの主要な内容になってくると、争闘の技術としての武道の意味はむしろ「兵法」という言葉によって現わされるようになっている。そこで、武道、男の道、武士の道などと言われるものは、自敬の立場において、卑しさそのものを忌み貴さそのものを尚ぶ道徳である、と言い得られるようになる。これは尊卑を主とする道徳であり、したがって貴族主義的である。君子道徳と結びつき得る素地は、ここに十分に成立しているのである。』
和辻はその方向が朱子学林羅山らの異学の禁に流れたことを嘆く。はたして西欧の思想はそこまで進んでいただろうか?ローマ帝国が滅んでから、西欧は未だに格物、致知、誠意、正心、 修身、斉家、治国、平天下をヨーロッパで実現していない。徳川治世の安定は鎖国によるものだろうか。
『日本人の思索活動にとっては、不幸は倍になったと言ってよかろう。当時の日本人の思索能力は、決して弱かったとはいえない。中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎、やや遅れて新井白石、荻生徂徠などの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日の思想界は、十分ヨーロッパのそれに伍することができたであろう。それを思うと、林羅山などが文教の権を握ったということは、何とも名状のしようのない不愉快なことである。』
底本:「和辻哲郎随筆集」岩波文庫、岩波書店1995(平成7)年9月18日第1刷発行
2006(平成18)年11月22日第6刷発行
初出:「中央公論」
1951(昭和26)年3月号
入力:門田裕志
校正:米田
2012年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
『室町時代の中心は、応永(一三九四―一四二八)永享(一四二九―一四四一)のころであるが、それについて、連歌師心敬は、『ひとり言』の中でおもしろいことを言っている。元来この書は、心敬が応仁の乱を避けて武蔵野にやって来て、品川あたりに住んでいて、応仁二年(一四六八)に書いたものであるが、その書の末尾にいろいろな名人を数え上げ、それが皆三、四十年前の人であることを省みて、次のように慨嘆しているのである。「程なく今の世に万の道すたれ果て、名をえたる人ひとりも聞え侍らぬにて思ひ合はするに、応永の比、永享年中に、諸道の明匠出うせ侍るにや。今より後の世には、その比は延喜一条院の御代などの如くしのび侍るべく哉」。すなわち応永、永享は室町時代の絶頂であり、延喜の御代に比せらるべきものなのである。しかるに我々は、少年時代以来、延喜の御代の讃美を聞いたことはしばしばであったが、応永永享時代の讃美を聞いたことはかつてなかった。それどころか、応永、永享というごとき年号を、記憶に留めるほどの刺激を受けたこともなかった。連歌の名匠心敬に右のごとき言葉があることを知ったのも、老年になってからである。しかし心敬のあげた証拠だけを見ても、この時代が延喜時代に劣るとは考えられない。心敬は猿楽の世阿弥(一三六三―一四四三)を無双不思議とほめているが、我々から見ても無双不思議である。能楽が今でも日本文化の一つの代表的な産物として世界に提供し得られるものであるとすれば、その内の少なからぬ部分の創作者である世阿弥は、世界的な作家として認められなくてはなるまい。』
室町期を劣った治世と描くのは徳川の血筋コンプレックスであろう。屋形衆をして屋形号与える関東八屋形守護領に後北条が攻め入ることをきっかけに、関東管領の影響下の合従連衡が破れ、北条早雲に始まる戦国以降格式も出自も卑しい覇者たちが社会を打ち壊す兆しが露わとなっていた時代であったことは間違いない。この崩壊のはじまりの時代を描くには小田政治(足利の庶子?)の佐竹氏を同盟に引き入れた天才的動きを追いかけると面白い。この頃には管領職は名誉程度の物となってしまう。世の中は戦に勝つ、実質支配の方を「御屋形様」と認めるようになっていった。
『 群雄のうち最も早いものは、北条早雲である。彼は素姓のあまりはっきりしない男であるが、応仁の乱のまだ収まらないころであったか、あるいは乱後であったかに、上方かみがたから一介の浪人として、今川氏のところへ流れて来ていた。ちょうどそのころに今川氏に内訌が起こり、外からの干渉をも受けそうになっていたのを、この浪人が政治的手腕によってたくみに解決し、その功によって愛鷹山南麓の高国寺城を預かることになった。これがきっかけとなって、北条早雲ほうじょうそううんの関東制覇の仕事が始まったのである。彼が伊豆堀越御所を攻略して、伝統に対する実力の勝利を示したのは、延徳三年(一四九一)すなわち加賀の一向一揆の三年後であった。やがて明応四年(一四九五)には小田原城を、永正十五年(一五一八)には相模一国を征服した。ちょうどインド航路が打開され、アメリカが発見されて、ポルトガル人やスペイン人の征服の手が急にのび始めたころである。』
延徳三年は戦国元年である。8月6日(延徳3年7月1日) - 足利茶々丸が継母円満院と弟の潤童子を殺害して堀越公方の家督を継ぐ。これを後の北条早雲が追放する。明確な貴族に対する反乱が起きた年となる。和辻が指摘した様に不思議なインド神の縁起が熊野や厳島に生まれるのは、民心に超自然で断絶した神話を欲した民衆社会の長い行き詰まりがあったのかもしれない。文化は財物の流通増加無しには産まれ出ない。輸入品に飛びつくのは今も同じ。日本は財物の循環を求め国境を越える治安の喪失に悲鳴を上げていたのではないだろうか。海の活用に優れた守護大名は早くから力をつけて行く。
『 以上の三つの家訓書は、目ぼしい戦国武士がみずから書いたものである。それだけで新興武士階級の思想を全面的に知ることはむずかしいかもしれぬが、しかしここに指導的な思想があったことを認めてもよいであろう。そういう視点を持ちながら、キリシタンの宣教師たちが戦国時代末期の日本の武士たちについて書いているところを読むと、なるほどそうであったろうと肯うなずける点が非常に多いのである。戦国の武士の道義的性格は決して弱いものではなかった。また真実を愛し、迷信を斥け、合理的に物を考えようとする傾向においても、すでに近代を受け入れるだけの準備はできていた。』
『主人公は観音の熱心な信者である一人の美しい女御である。宮廷には千人の女御、七人の后が国王に侍していたが、右の女御はその中から選び出されて、みかどの寵愛を一身に集め、ついに太子を身ごもるに至った。そのゆえにまたこの女御は、后たち九百九十九人の憎悪を一身に集めた。あらゆる排斥運動や呪詛が女御の上に集中してくる。ついに深山に連れて行かれ、首を切られることになる。その直後にこの后は、山中において王子を産んだ。そうして、首を切られた後にも、その胴体と四肢とは少しも傷つくことなく、双の乳房をもって太子を哺んだ。この后の苦難と、首なき母親の哺育ということが、この物語のヤマなのである。太子は四歳まで育って、母后の兄である祇園精舎の聖人の手に渡り、七歳の時大王の前に連れ出されて、一切の経緯を明らかにした。大王は即日太子に位を譲った。新王は十五歳の時に、大王と聖人とを伴って、女人の恐ろしい国を避け、飛車で日本国の熊野に飛んできた。これが熊野三所の権現だというのである。』
和辻哲郎「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」、『和辻哲郎随筆集』、岩波文庫、1995年、99-107頁
私は日本の延徳三年以降は精神的に近代であったと考える。文芸復興期が応永1394年から1427年まで(鹿苑寺(金閣寺)は応永四年棟上げ、一休宗純は応永元年の生まれ、応永は35年まであり大内の謀反応永の乱が治る10年以降は戦乱もなく平和が続く(応永の外寇の応永26年(1419年)の10日ほどの外憂があったが、昭和、明治に次ぐ元号期間の長さが平安だった室町花の御所時代を物語る、平成がこれに該当する50年だとしたらー2038年くらいまでは日本は平和であろう)、永享期1429年9月5日から1441年2月17日までのほぼ五十年が中世文化の頂点で、それからきっちり50年経て戦国時代が始まる。
個別の客観的評価判断がそれまでの貴族権威的伝承価値に勝るという時代を近代の始まりとするならば、西欧ではルター以降が近代である。近代は正直・慈悲・智慧を徳の前提と措かなければ成立しない。
なぜなら我々がごく当然に社会組織経営に必要な方法を選び、より良い世俗社会を実現するためには、正直に「あるはある」という態度で現実に臨まなければ社会の自律自治が得られないからだ。このように個別の智慧を経由した格率を精神に要請するのは近代の精神的前提である。それ故日本においては、延徳三年以降に早くも世俗社会の建設が始まる。東山文化の様な王家の権威が個別の一族の智慧に先行優先するような王権による気ままな王朝復古文化は二度と蘇ることなく日本の古代中世の雅は延徳三年の下剋上とともに終わった、その雅さの形式だけが日本文化に残されたと考えるべきだろう。尚、私は日本にだけ近世(ほぼ江戸時代)という区分があることは、歴史を普遍的に理解する障害と思うので、近世という区分はしない。
『 以上のごとく見れば、応仁以後の無秩序な社会情勢のなかにあっても、ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況は、十分に成立していたということができるのであろう。だから半世紀の間にキリシタンの宣教師たちのやった仕事は、実際おどろくべき成果をおさめたのである。
しかし文化的でない、別の理由から出た鎖国政策は、ヒステリックな迫害によって、この時代に日本人の受けたヨーロッパ文化の影響を徹底的に洗い落としてしまった。その影響の下に日本人の作り出した文化産物も偶然に残存した少数の例外のほかは、実に徹底的に湮滅させられてしまった。したがってあれほど大きい、深い根をおろした文化運動も、日本の歴史では、ちょっとした挿話くらいにしか取り扱われないことになった。』
和辻哲郎は、鎖国がヒステリックな迫害であることとしているが、本当の鎖国の理由は奴隷貿易の阻止であったことが見落とされていた。このように文化だけが歴史ではないが、マインドセットの変更が歴史に先行することを見ておけば、日本の戦国時代は十分に近代の要件を揃えていた。欠けていたのは中央政府だけだった。畿内の権威ではなく実力で支配できる治天者、天下人を待ち続けていた。甲陽軍鑑を引いて和辻は、
具体的には秀吉は
「予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」
『 以上の四類型は国を滅ぼす大将の類型であるが、それによって理想の大将の類型が逆に押し出されてくる。それは賢明な、道義的性格のしっかりとした、仁慈に富んだ人物である。そこには古来の正直・慈悲・智慧の理想が有力に働いているが、特に「人を見る明」についての力説が目立っているように思われる。うぬぼれや虚栄心や猜みなどのような私心を去らなくては、この「明」は得られないのであるが、ひとたび大将がこの明を得れば、彼の率いる武士団は、強剛不壊のものになってくる。ということは、道義的性格の尊重が彼の武士団を支配するということなのである。この書のねらっている武士の理想は、道徳的にすぐれた人物となるということのほかにはないと思う。
一般に武士の理想を説く場合にも、正直・慈悲・智慧の理想が根柢となっていることは明らかであるが、しかしこの書全体にわたってなお一つの特徴が明白に現われているのを我々は指摘することができる。それは強烈な自敬の念である。前に多胡辰敬の家訓のなかから、おのれを卑下すればわが身の罰が当たるという言葉を引いたが、この心持ちはこの書では非常に強く説かれている。特に武道、男の道、武士道などを問題とする場合に顕著である。これらの言葉は本来は争闘の技術を言い現わしていたのであるが、そこに「心構え」が問題とされるようになると、明白に道徳的な意味に転化して来る。そうしてそこで中心的な地位を占めるのは、自敬の念なのである。おのれが臆病であることは、おのれ自身において許すことができぬ。だからおのれ自身のなかから、死を怖れぬ心構えが押し出されてくる。そういう人にとっておのれの面目が命よりも貴いのは、外聞に支配されるからではなく、自敬の念が要求するからなのである。同様に、おのれの意地ぎたなさや卑しさは、おのれ自身において許すことができぬ。だからここでもおのれ自身のなかから、男らしさの心構えが押し出されてくる。廉潔を尚とぶのは、外聞のゆえではなくして、自敬の念のゆえである。こうして自敬の念に基づく心構えが、やがて武道とか男の道とかの主要な内容になってくると、争闘の技術としての武道の意味はむしろ「兵法」という言葉によって現わされるようになっている。そこで、武道、男の道、武士の道などと言われるものは、自敬の立場において、卑しさそのものを忌み貴さそのものを尚ぶ道徳である、と言い得られるようになる。これは尊卑を主とする道徳であり、したがって貴族主義的である。君子道徳と結びつき得る素地は、ここに十分に成立しているのである。』
和辻はその方向が朱子学林羅山らの異学の禁に流れたことを嘆く。はたして西欧の思想はそこまで進んでいただろうか?ローマ帝国が滅んでから、西欧は未だに格物、致知、誠意、正心、 修身、斉家、治国、平天下をヨーロッパで実現していない。徳川治世の安定は鎖国によるものだろうか。
『日本人の思索活動にとっては、不幸は倍になったと言ってよかろう。当時の日本人の思索能力は、決して弱かったとはいえない。中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎、やや遅れて新井白石、荻生徂徠などの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日の思想界は、十分ヨーロッパのそれに伍することができたであろう。それを思うと、林羅山などが文教の権を握ったということは、何とも名状のしようのない不愉快なことである。』