あのとき果たせなかった「愛」が積もる
仕事場に一幅の掛け軸を下げた。
全紙を軸装すると畳一畳ぶんの大きさになる。
「一點」と書かれた軸は、余白が本来の作品ではと思うほどに潔い。「一點」――非常に少ないこと、希少なこととあるが、この軸をひと目見たときに思い浮かんだ意味は「たったひとつ」だった。
焦がれ焦がれて手に入れた。雑然とした仕事場の、やっと作った壁に落ち着いてもらい、朝夕しみじみと眺める日々が続いている。
毎日祈るように見つめる「一點」の二文字。なにも足せず、引くこともできない透明な世界がそこにある。
白でも黒でも色があれば別の色を重ねてゆける。しかし透明はそうはいかない。いつまで色を与えても向こう側が透ける。頑固なまでの自我、そして潔さである。
中江有里氏の長編『愛するということは』を読み終えたとき、この掛け軸に感じ続けた「透明さ」がいっそうはっきりと胸に落ちてきた。
物語のまん中に据えられるのは母と娘の半生なのだが、このふたりには逃れられないわだかまりがある。
母ひとり子ひとり、その関係はいつの世も薄い氷の上を歩くように危うい。加えて母には傷害の前科がある。
不実な男の暴力と暴言、傷ついた体と心。耐えられず犯した若い時分の罪は、女の人生を早いうちから食べ尽くそうとする。自身の人生の一大事に、申し開きもせず争う気力も起きなかった里美の魂は空虚だ。
里美の人生は、自分を手に入れ損ねた若いうちから、薄闇を養分のごとく流れ始めた。母親、父親、弟。血縁に疎まれながら世の中を流れているところへ、やっと守りたいものが現れた。それが、汐里だった。
里美の人生は幼い汐里を中心に回ろうとするが、その生活は決して裕福ではなく、あまりの困窮にご祝儀泥棒をはたらいてしまう。
まっとうを夢見て、傷だらけの女は弱々しい足取りで立ち上がり、転び、再び立ち上がる。ひとり生きるだけでも手いっぱいなところへ、子どもはどんどん大きくなる。大人の言動に疑問を持てば、嘘をつくことを覚える。
子育ては山と谷、喜びと傷の繰り返しだ。
ふたりきりで生きているようで、しかしふたりを生きるためにこの母と娘はさまざまなひとに出会う。その出会いに、己のかたちを確かめながら歩く。
生きてゆくということは、あらゆる困難から生じる心のありようと見つめ合い、ひとつひとつ克服するということだ。どんな時代に生まれても、己を知るのは苦しい。(以下略)