公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

青山(せいざん)とは墓地のこと 『人間到る処青山あり』

2017-12-16 08:25:03 | 日本人


幕末の僧、釈月性の詩「男児志を立てて郷関を出ず、学若し成る無くんば復還らず、骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん、人間到る処青山あり」青山とは墓所のこと。

青山墓地は、ボチボチということか。

月性(げっしょう、文化14年9月27日(1817年11月6日) - 安政5年5月11日(1858年6月21日))は、江戸時代末期(幕末期)の尊皇攘夷派の僧。周防国大島郡遠崎村(現在の山口県柳井市遠崎)、妙円寺(本願寺派)の住職。諱は実相。字は知円。号は清狂・烟渓・梧堂。贈正四位。西郷と入水した月照とは別人物だが、同じ年に入滅している。

一方の月照(げっしょう、文化10年(1813年)- 安政5年11月16日(1858年12月20日))は、幕末期の尊皇攘夷派の僧侶。成就院の住職。名は宗久、忍介、忍鎧、久丸。辞世の句
大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも

さらに

くもりなき 心の月の薩摩潟 沖の波間に やがて入りぬる(月照)
二つなき 道にこの身を捨て小舟 波立たばとて 風吹かばとて(西郷)


成就院の月の庭

今年の成就院の発見
『9月はじめ、京都清水寺成就院で、学芸員の坂井輝久氏に、ある書翰(しょかん)を見せていただいた。「極密」の文字が3カ所も記されたこの書翰は、幕末の公家、近衛忠煕(ただひろ)が、安政5(1858)年2月17日に、ともに成就院の住職を務めた忍向(にんこう)とその弟、信海に宛てたものであった。

 友松円諦『月照-人・思想・歴史』(音羽山清水寺刊、昭和50年)では、原本の所在不明と記されていたが、成就院に軸装保管されていたのだ。

 その中身は、高野山での夷狄退教の祈祷(きとう)を依頼したものである。「極密申し入れ候。今度亜国(アメリカ)使節申し立ての条々、容易ならざる事柄、このまま流れ候時は、終(つい)には国家の御大事にも候や、ことに邪宗門(キリスト教)流布せしむるの意、もっての外」とする。信海は、高野山の僧籍も兼ねており、高野山での祈祷は実現した。

 兄の忍向は、月照という名の方が、知られているだろう。「眉目清秀、威容端厳、風采自(おの)ずから敬信を惹(ひ)く」と評された。

 ペリーが開国を迫ったとき、近衛忠煕は清水寺に参詣して、月照に初めて会っている。歴代天皇の清水寺への帰依は篤かったが、孝明天皇の尊崇(そんすう)は特に大きかったからだ。

 このとき月照は「君がため 法(のり)のためには 露(つゆ)の命 今此時ぞ 捨て所なる」との歌を近衛に返した。また月照は孝明天皇から御衣を下賜(かし)された。「純忠至誠」の勤皇僧となっていた。』


できる限り調べたがなぜか月照に贈位はない。尊王攘夷運動の犠牲者にはほとんど死後の贈位ないし叙位があるのに、これがとても不思議。後の人が妙円寺の月性と間違えていたということもあるまいが。


ちなみにオウム真理教の弁護士青山吉伸は1960年生まれだが、1963年に起きた吉展ちゃん誘拐殺人事件を暗示した名前になっている。つまり墓場の「よしのぶ」これに気づいた時、ちょっとゾッとした。吉展ちゃんは南千住の墓場で白骨で発見された。オウム真理教のテロ計画に決定的なリムジン謀議参加者で二人だけ起訴されていない人物は青山吉伸と石川公一。青山吉伸、果たしてこの男、日本人なのだろうか。この二人の動静は依然として注目している。現在過去のオウム真理教の信者たちが50代なかばから上になり、そこそこ責任ある地位についている。15000人の在家と1500人の出家信者がいたと言われるがその実働は『 』である。非常に危険な治安状況にある。

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