関東大震災は殆ど忘れられた。残念ながら、悲劇の場所となった旧被服廠跡地に建った両国の江戸東京博物館においてさえ、関東大震災の展示は僅かである。東京大空襲の死者が多かった所為もあるが、あまりに小さいあつかいである。吉村昭の「関東大震災」はそれ故に一読の価値がある。
芥川龍之介の記録
芥川龍之介の記録
八月二十五日。
一游亭いちいうていと鎌倉より帰る。久米くめ、田中たなか、菅すが、成瀬なるせ、武川むかはなど停車場へ見送りに来きたる。一時ごろ新橋しんばし着。直ちに一游亭とタクシイを駆かり、聖路加せいろか病院に入院中の遠藤古原草ゑんどうこげんさうを見舞ふ。古原草は病殆ほとんど癒いえ、油画具など弄もてあそび居たり。風間直得かざまなほえと落ち合ふ。聖路加病院は病室の設備、看護婦の服装等とう、清楚せいそ甚だ愛すべきものあり。一時間の後のち、再びタクシイを駆りて一游亭を送り、三時ごろやつと田端たばたへ帰る。
八月二十九日
暑気甚はなはだし。再び鎌倉に遊ばんかなどとも思ふ。薄暮はくぼより悪寒をかん。検温器を用ふれば八度六分の熱あり。下島しもじま先生の来診らいしんを乞ふ。流行性感冒のよし。母、伯母をば、妻、児等こら、皆多少風邪ふうじやの気味あり。
八月三十一日。
病聊いささか快こころよきを覚ゆ。床上「澀江抽斎しぶえちうさい」を読む。嘗て小説「芋粥いもがゆ」を艸さうせし時、「殆ほとんど全く」なる語を用ひ、久米に笑はれたる記憶あり。今「抽斎」を読めば、鴎外おうぐわい先生も亦また「殆ど全く」の語を用ふ。一笑を禁ずる能あたはず。
九月一日。
午ひるごろ茶の間まにパンと牛乳を喫きつし了をはり、将まさに茶を飲まんとすれば、忽ち大震の来きたるあり。母と共に屋外をくぐわいに出いづ。妻は二階に眠れる多加志たかしを救ひに去り、伯母をばは又梯子段はしごだんのもとに立ちつつ、妻と多加志とを呼んでやまず、既すでにして妻と伯母と多加志を抱いだいて屋外に出づれば、更さらに又父と比呂志ひろしとのあらざるを知る。婢ひしづを、再び屋内をくないに入り、倉皇さうくわう比呂志を抱いだいて出づ。父亦また庭を回めぐつて出づ。この間かん家大いに動き、歩行甚だ自由ならず。屋瓦をくぐわの乱墜らんつゐするもの十余。大震漸く静まれば、風あり、面おもてを吹いて過ぐ。土臭殆ほとんど噎むせばんと欲す。父と屋をくの内外を見れば、被害は屋瓦の墜おちたると石燈籠いしどうろうの倒れたるのみ。
円月堂ゑんげつだう、見舞ひに来きたる。泰然自若じじやくたる如き顔をしてゐれども、多少は驚いたのに違ひなし。病を力つとめて円月堂と近鄰きんりんに住する諸君を見舞ふ。途上、神明町しんめいちやうの狭斜けふしやを過ぐれば、人家の倒壊せるもの数軒を数ふ。また月見橋つきみばしのほとりに立ち、遙はるかに東京の天を望めば、天、泥土でいどの色を帯び、焔煙えんえんの四方に飛騰ひとうする見る。帰宅後、電燈の点じ難く、食糧の乏しきを告げんことを惧れ、蝋燭らふそく米穀べいこく蔬菜そさい罐詰くわんづめの類を買ひ集めしむ。
夜よるまた円月堂の月見橋のほとりに至れば、東京の火災愈いよいよ猛に、一望大いなる熔鉱炉ようくわうろを見るが如し。田端たばた、日暮里につぽり、渡辺町等わたなべちやうとうの人人、路上に椅子いすを据ゑ畳を敷き、屋外をくぐわいに眠らとするもの少からず。帰宅後、大震の再び至らざるべきを説き、家人を皆屋内に眠らしむ。電燈、瓦斯ガス共に用をなさず、時に二階の戸を開けば、天色てんしよく常に燃ゆるが如く紅くれなゐなり。
この日、下島しもじま先生の夫人、単身たんしん大震中の薬局に入り、薬剤の棚の倒れんとするを支ささふ。為めに出火の患うれひなきを得たり。胆勇たんゆう、僕などの及ぶところにあらず。夫人は澀江抽斎しぶえちうさいの夫人いほ女の生れ変りか何かなるべし。
九月二日。
東京の天、未いまだ煙に蔽おほはれ、灰燼くわいじんの時に庭前に墜おつるを見る。円月堂ゑんげつだうに請ひ、牛込うしごめ、芝等しばとうの親戚を見舞はしむ。東京全滅の報あり。又横浜並びに湘南しやうなん地方全滅の報あり。鎌倉に止とどまれる知友を思ひ、心頻しきりに安からず。薄暮はくぼ円月堂の帰り報ずるを聞けば、牛込は無事、芝、焦土せうどと化せりと云ふ。姉あねの家、弟の家、共に全焼し去れるならん。彼等の生死だに明らかならざるを憂ふ。
この日、避難民の田端たばたを経へて飛鳥山あすかやまに向むかふもの、陸続りくぞくとして絶えず。田端も亦また延焼せんことを惧おそれ、妻は児等こらの衣いをバスケツトに収め、僕は漱石そうせき先生の書一軸を風呂敷ふろしきに包む。家具家財の荷づくりをなすも、運び難からんことを察すればなり。人慾素もとより窮きはまりなしとは云へ、存外ぞんぐわい又あきらめることも容易なるが如し。夜よに入りて発熱三十九度。時に○○○○○○○○あり。僕は頭重うして立つ能あたはず。円月堂、僕の代りに徹宵てつせう警戒の任に当る。脇差わきざしを横たへ、木刀ぼくたうを提ひつさげたる状、彼自身宛然ゑんぜんたる○○○○なり。