公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

意識の余計

2013-06-22 20:47:55 | 今読んでる本
Life as "those set of functions which resist death". ......Bichat

健康に生きている間は、自分が最終的に死ぬことなど何十年も考えずに過ごすことができる。差し迫ったとしてもそれが早まることはたぶん私も含め望まないだろう。しかしながら死だけは自分に無関係な問題ではない。これを何と考えるのか。昔、生命を「死にゆく過程に対する抵抗の総和」と定義したリヨンの生物学者、医師マリー・フランソワ・クサヴィエ・ビシャ。熱力学的定義としては間違ってはいないが生命の内容メカニズムに踏み込んではいない。例えば塵埃の如く死んでいるに等しく、環境にただ漂うだけのウイルスは何に対しても抵抗していないが一応生命である。しかし死を含んでいるという点でビシャの考えは大変に優れている

さていざ「俺は死ぬのか」となった時、死に抵抗しようとする自然な肉体的、精神的反応をどう安らかに処すべきだろう。肉体的にはせいぜいにっこり笑うくらいの処置だろう。理も情も己も幻影なのだから。しかし、肉体の死は、己の魂の滅亡ではない。

精神的不安には逆に自然(じねん)に沿って<生きること>を善と当てることで処置できる。故に健康に生きている間の不安は自然に沿って<死ぬること>を善と当てて生きることが、意識の余計を排する策となる。左リンク南洲手抄言志録の二十番を参照のこと。



私による、私のリンク集



二十
 生物皆畏レ死。人其靈也、當下從二畏レ死之中一、揀中出不レ畏レ死之理上。吾思、我身天物也。死生之權在レ天、當レ順二受之一。我之生也、自然而生、生時未二嘗知一レ喜矣。則我之死也、應三亦自然而死、死時未二嘗知一レ悲也。天生レ之而天死レ之、一聽二于天一而已、吾何畏焉。吾性即天也。躯殼則藏レ天之室也。精氣之爲レ物也、天寓二於此室一。遊魂之爲レ變也、天離二於此室一。死之後即生之前、生之前即死之後。而吾性之所二以爲一レ性者、恒在二於死生之外一、吾何畏焉。夫晝夜一理、幽明一理。原レ始反レ終、知二死生之理一、何其易簡而明白也。吾人當下以二此理一自省上焉。


生物は皆死を畏おそる。人は其靈(れい)なり、當に死を畏るゝの中より死を畏れざるの理を揀出(けんしゆつ)すべし。吾れ思ふ、我が身は天物なり。死生の權(けん)は天に在り、當に之を順受(じゆんじゆ)すべし。我れの生るゝや自然にして生る、生るゝ時未だ嘗て喜(よろこ)ぶことを知らず。則ち我の死するや應(まさ)に亦自然にして死し、死する時未だ嘗て悲むことを知らざるべし。天之を生みて、天之を死(ころ)す、一に天に聽(まか)さんのみ、吾れ何ぞ畏れん。吾が性は即ち天なり、躯殼(くかく)は則ち天を藏(おさ)むるの室なり。精氣(せいき)の物と爲るや、天此の室に寓(ぐう)す。遊魂(いうこん)の變(へん)を爲すや、天此の室を離(はな)る。死の後は即ち生の前なり、生の前は即ち死の後なり而て吾が性の性たる所以は、恒(つね)に死生の外に在り、吾れ何ぞ畏れん。夫れ晝夜は一理りなり、幽明(いうめい)は一理なり。始めを原(たづ)ねて終りに反(かへ)らば、死生の理を知る、何ぞ其の易簡(いかん)にして明白なるや。吾人は當に此の理を以て自省(じせう)すべし。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 関東大震災 | トップ | 日本人の微笑 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。