今読んでる。『昭和天皇とワシントンを結んだ男ー「パケナム日記」が語る日本占領』
『一九七九年 、ロッキ ード事件につづいて起こったダグラス 、グラマン事件のなかで 、対日売り込み工作コンサルタントとして 、それまで水面下にいて報道されることのなかったハリ ー ・カ ーンの名前が 、突然 、浮かびあがった 。一月四日 、米証券取引委員会 ( S E C )はグラマン社が自社の早期警戒機の売り込みのために海外での不正支払いに関与したと告発した 。その贈賄計画に複数の日本政府高官とひとりのアメリカ人コンサルタントを使っていたことが発覚した 。不正支払いのコミッションの一部は 、このコンサルタントに支払われることになっていて 、そのコンサルタントこそ 、当時 、六七歳のハリ ー ・カ ーンだったのである 。』
ACJはジャパン・ロビーの中枢組織として発足した。ジャパン・ロビーとは端的にはグルー派である。ジョン・モルガンを従兄に持つグルーは、日米開戦までの10年間という駐日大使時代を通じて日本の政界や財閥、海軍将官、華族に多くの知己を持っていた。グルーの在任期間は戦前日本の政党政治の末期に重なっており、ポツダム宣言が日本の「民主主義の復活」という表現を用いたのもグルーの意見が反映されたものである。ジャパン・ロビーは、台湾国民党政権を支援するチャイナ・ロビーと競い合っていた。双方は共に反共路線であったが、後者は台湾から資金援助を受けていた。経済基盤の違いはそれぞれの主張に反映された[3]。ジャパン・ロビーの存在感は、ニューヨーク・タイムズ、シカゴ・トリビューン、タイム (雑誌)などにより演出された。ニューズウィークはジャパン・ロビーの目的に最も貢献した。当時のニューズウィークを所有・支配したのは主に、ハリマン家、アスター家、メロン家、モルガン家などの富豪である。同誌の役員などは戦前に公然とファシズムを支援した。コンプトン・パケナム(Compton Pakenham)は1940年代末の同誌東京支局長であった。外信部長ハリー・F・カーンは、パケナムと共にジャパン・ロビーと結んだ。そしてGHQの連合国最高司令官や経済科学局が推進する日本の急激な民主化に反対して一大論争を繰り広げた[4]。1948年3月、冷戦論者のジョージ・ケナンがマッカーサーを訪ね、集排法が日本をいっそう共産化すると示唆した。月末に賠償調査団団長のウィリアム・ヘンリー・ドレイパー・ジュニアがケミカル銀行頭取パーシー・ジョンストンらを伴い東京を再び訪れている。彼らは政府の対日政策を左右できるポストにあったから、その報告は瞬く間に集中排除計画への公的見解をひっくり返した。SCAP覚書で、財閥を結びつける核となっていた主要銀行が集中排除から免除された[5]。カーンは、PRジャパンやフォーリンレポート社を通じて長く日本の防衛装備と石油産業支配に関与し続ける。彼がつくったロビイストたちはマッカーサーよりも昭和天皇に信頼され、日本の政治は彼らに依存するようになった始まりをつくった。そのような男ゆえに、こうして名前は出てきても公聴会に召喚されることはなかった。民政局のチャールズ・L・ケーディスは鳥尾鶴代と不倫関係にあったというエピソードが有名。アメリカ対日協議会のハリー・カーンが春名幹男に語ったところによると、ハリーに吉田茂が女性関係を調べさせ、証拠写真を撮らせたという。
『《上海キャセイホテル 》日記はこうはじまっている 。つづいて一九四八年一二月二一日と日付が記されてある 。わたしは戦後はじめてパケナムが東京へ足をふみいれた一九四六年初夏から 、一連のマッカ ーサ ー批判を展開した頃の日記が読みたかった 。連合国軍の占領がはじまった一九四五年八月末から一〇ヵ月たった頃の東京を 、彼はどんな気持ちでながめたのであろうか 。ナサニエル ・カ ーンにもその旨 、頼んでおいたのだったが 、 「一九四六年も四七年もなかったよ 」インタビュ ーの翌日にふたたびオフィスをたずねると 、彼はぶっきらぼうにこうこたえた 。渡された日記は一九四八年末から一九五三年ころまでである 。』
これでもうがっかりである。民政局とG2の暗闘は見えない。1948年12月1日にアメリカ政府が SCAP に指示した「経済安定9原 則」の第6項において,外国貿易管理の改善、外国為替管理の強化が指示され、「9原則」はアメリカ政府の新たな対日政 策(1948年10月国家安全保障会議採択 NSC13-2)にもとづいて、日本経済の 復興を目的にアメリカ政府が SCAP に行った指示である。12月21日といえば、すでに逆コース路線が確定している。
クリスマスイブ恩赦が決定されていた時期では、何もこの先に暗闘を垣間見ることを期待できるがない。ただ、添え物として昭和天皇をフリーメースンに勧誘しようとした事実が記載されている。
『再々入国をはたし 、チェックインしたパケナムがホテルを出て 、渉外課のあるラジオ ・トウキョウ (現在の N H K )へ向かってぶらぶら歩いていくと 、なんという偶然か 、ふたつ星のクルマが通りすぎていき 、突然 、止まった 。クルマから出てきたのは 、カ ーキ色のスポ ーツ ・シャツをきたウイロビ ーだった 。彼はハグできるほどパケナムに接近してきて 、歩道のうえでこう声を上げた 。 《 「おめでとう !ついにわれわれはやったね 」 》パケナムはこう書いている 。 《ああ 、なんと私は用心したことか 。彼は電話してくるといった 。そして 、 「われわれふたりだけで 、祝杯をあげようではないか 。時間の都合がつく午後すぐにでも 。われわれは話しあうことがたくさんある 。そうじゃないか ? 」 》ウイロビ ーがパケナムの動きを逐一チェックして 、偶然 、会ったように近づいてきたことは明らかである。』
『東京-1950年1月30日日曜日というハリーカーン宛ての手紙に始まる。
《先週の水曜日 、松平とふたりだけの夕食 。松平が緊急の助言をもとめてきた 。リビスト大佐 ( G H Qモニュメント部門 )が天皇をフリ ーメ ーソンの会員にするようにといって 、松平を追いかけているのである 。リビストはあきらかに日本のフリ ーメ ーソンのトップである 》
《少し前 、占領軍は日本政府へ 、ロシア大使館ちかくの大きな白い建物 、あの米海軍クラブではなく 、旧日本海軍の水交社を返還すると通告した 。しかし 、水交社が宿舎としてつかわれなくなっても返還せず 、そのかわり 、占領軍のメ ーソンがここに移動していたのである 》
《そこでリビストは 「メ ーソン支部設立許可状をくれれば 、天皇を入会させ 、天皇が入会する儀式に立ち会わせよう 」といいはなった 。それはフィリピンのメ ーソンには断りがたい話だった 。こういうわけで東京に支部が設置され 、選ばれた日本人が入会させられた 。松平は 「リビストは日本へもどると再び謁見を要求しだした 。もちろん 、マッカ ーサ ーもメ ーソン ( ? )であることだし 、こうしたプレッシャ ーのもとで彼が天皇に会いに来るのを妨げることはできないが 、天皇が入会するのは無理だろう 」といった 》』
『東京-1950年1月30日日曜日というハリーカーン宛ての手紙に始まる。
《先週の水曜日 、松平とふたりだけの夕食 。松平が緊急の助言をもとめてきた 。リビスト大佐 ( G H Qモニュメント部門 )が天皇をフリ ーメ ーソンの会員にするようにといって 、松平を追いかけているのである 。リビストはあきらかに日本のフリ ーメ ーソンのトップである 》
《少し前 、占領軍は日本政府へ 、ロシア大使館ちかくの大きな白い建物 、あの米海軍クラブではなく 、旧日本海軍の水交社を返還すると通告した 。しかし 、水交社が宿舎としてつかわれなくなっても返還せず 、そのかわり 、占領軍のメ ーソンがここに移動していたのである 》
《そこでリビストは 「メ ーソン支部設立許可状をくれれば 、天皇を入会させ 、天皇が入会する儀式に立ち会わせよう 」といいはなった 。それはフィリピンのメ ーソンには断りがたい話だった 。こういうわけで東京に支部が設置され 、選ばれた日本人が入会させられた 。松平は 「リビストは日本へもどると再び謁見を要求しだした 。もちろん 、マッカ ーサ ーもメ ーソン ( ? )であることだし 、こうしたプレッシャ ーのもとで彼が天皇に会いに来るのを妨げることはできないが 、天皇が入会するのは無理だろう 」といった 》』
リビストはPX の商品横流しで除名されたので、面会には至らなかった。
興味深い会話は渡辺武の昭和25年の日記にある。
『夕食会の詳細は四名の日本人のひとり 、渡辺武の日記に記録されている 。 『渡辺武日記 』は 、渡辺が終戦連絡部長の地位についてからの五年間をつづったもので 、英語をまじえた横書きの日記にはつぎのように記されてある (著者が英語を日本語に置き換え読みやすく整えた ) 。
六月二二日 (木 )夜 、ニュ ーズウィ ークのハリ ー ・カ ーンの斡旋で 、パケナムの家で昨日来日したダレス国務長官顧問と夕食を共にして 、七時三〇分から一〇時三〇分にわたり 、三時間いろいろと日本の平和条約問題などについて懇談した 。
(ダレス )日本は国際間の嵐がいかに激しいか知らないので 、のどかな緑の園にいるという感じである 。
(渡辺 )しかし 、自らを守る方法のない日本人としては 、将来に対して漠然たる不安感がある 。アメリカが日本をアメリカの側に引きつけて置こうと思うならば 、ロシアの侵入から必ず保護されるという安心感を与えられることが必要であると自分は考える 。ーーー』
ダレスは結局、米国がロシアが単独では脅威ではないが、日本やドイツが共産側に行くことだけは避けたいと考えていた。もしも、日本が東側に行く素振りを示すのなら日本を破壊し撤退すると脅している。この人はBISの創設メンバーだから、言うことに現実味がある。BISこそがナチスの本隊だからね。この脅しが効いて、吉田茂の側から差し出す形で米軍基地の永続配置を申し出ることになる。
そこにいた渡辺武とはどういう立場の人間なのかこの会話でよくわかるだろう。終戦直後は福田赳夫の部下のくせに、昭和23年の昭電疑獄で謹慎していたから、この男が外患誘致係だった。最初からコレがこの男のシゴトだった。104歳まで生きたとは世の格言のとおりだ。吉田茂が絡んでも、白洲次郎など小物過ぎてパケナムの日記には一つも出てこないでしょ。この男が本当に活躍したのは、昭和12年から18年頃なのだ。
渡辺の周りには経済政策面で宮沢喜一、池田勇人がおり、政治面では海原治、澤田廉三、松平康昌らも、同じ日米連声管の役割を担っていた。
白洲次郎は偉人のように言われてるのだが、山本五十六が太平洋戦争は一年ぐらいしか持たないと言ってたのに、白洲次郎が米国(背後の国際金融資本)の指示でパナマから石油を輸入して4年も日本は戦争を継続できた。
年齢の近かった松平康昌もコンプトン・パケナムもなぜか同時期に突然他界する。1957年 昭和32年だ。パケナムの父は間違いなく神戸のフリーメースン会長だった。おそらくパケナムもメンバーだったのだろう。