経験主義哲学は演算可能な世界に拡張されなければならない。なぜなら経験は精神的演算結果に過ぎないからです。精神的という部分を認識作用が関わると置き換えても同じです。アトミズム・原子論には根本的な立ち位置の誤り(それはニュートンまで遡る)があって、そこで私たちは物質に対峙して観察者の立場が当たり前になっているため、観測者の干渉という限界で実証的量子論は精度は得ましたが、真度を得られずに行き詰まっているのです。以下はその解決のための序論。真度とは正確さではなく矛盾のない全体性ということです。
まず結論から述べる。われわれは同じ演算の仕組みを通じてリアリティを共有している。この結論は混合数学や応用数学に限るものではない。共有するのはリアリティの契機となるモノではなくリアリティに至る計算過程である。われわれが世界を無限に理解できるというアトミズムが可能なのはモノの延長可能性を疑わない無理の結果であるが、実はわれわれは無限に世界の事実を共有できているのではない。逆にモノを契機とした計算過程の妥当性の延長可能性を疑わないから、単一世界の事実共有という真度が得られるのである。
ここに見た共有アプローチの違いは重大な違いである。われわれはもうこのことを知ったのだから、21世紀のわれわれは演算そのものを研究しなければ哲学を完成する、つまり哲学の真度を得る学問ができないはずである。演算とは目や耳に出力した電気現象の求積から生理的に得る原関数の推定である。この原関数の推定から得られる真度は、時には工学や応用数学で連続を前提としているラプラス変換を経由できるものである。最終的に明示的に指数関数の線型表現に落とせるものである。困難は真度には連続を前提としないものがあるという一見超自然的な自然が横たわっている点である。
前にも書いているが、『思考とその構造を測定することだけが哲学である。』という立場で私のリアリティ哲学は真度問題に近づいている。そのつもりでこれを書いている。故に私の哲学に神は含まれず、真度に関わる充足理由律だけが思考の対象である。
例えば数学が辿れるわれわれの側の通常のリアリティは連続関数までです。故にここで経験主義が不連続な入力の統合的直覚、絶対矛盾的同一性まで拡張されなければ、今という仮想の普遍性が理解できなくなる。それは宇宙の全体像を描くには非常に都合が悪いので、ここでは便宜上この構造を直覚(これを理解するにはライプニッツのモナドロジーを導きの糸とするしかない)としておく。因果の観念と実相を結びつける脳裏の関数化作用が統合的直覚であるが、この作用場をわれわれの側では今という。リアリティの源泉はその関数化作用であり存在や物質ではない。われわれの外側にもその作用場は拡がっていて、真の宇宙を形成している。われわれの世界の中であっても、その関数化作用が違う世代、違う民族は全く違うリアリティに生きている。人類はもうその関数化作用において数万年前から分裂を始めていて、動物の本能に近い即自的認識を除いては、統合的直覚を共有できなくなってしまった。音楽の世界を見てもスコアがあるから共感するのではない。本質的にはリズムとハーモニーの演算を共有することや演算を固定しない世界が開ける予測に興奮して共感する。演算過程が共有できなければ、世代を超えて伝達されることもない。もっとこの哲学を拡張するならば、動物と人間は脳裏の計算の延長可能性を共有していないから別のリアリティの世界に生きている。文明は常に向自的なので分裂し数学と数学以外が交流できなくなりバベルの塔のように建設崩壊する運命にある。しかし共有することは人類にとって本来難しい作用ではなかったはず、例えば統合的直覚の真実の最も古典的形態が愛であった。
奇しくもこんな研究が発表されている
《一般に量子状態の位相は、環境との相互作用により簡単に乱れてしまいます。この乱れやすさが、量子現象の観測や量子技術の実現を困難にしている大きな要因の一つです。今回研究グループは、多数の原子から成る量子系と環境との結合が位相を乱すのではなく、むしろ自然に秩序が生み出されるという新奇な現象を世界で初めて観測しました。具体的には図のように、極低温原子集団から、原子が選択的に閉じ込め領域の外に逃げ出すことによって、量子状態を構成する5つの波の位相が揃う現象の観測に成功しました。この研究の詳細は、2019 年 6 月 21 日に学術誌 Physical Review Letters でオンライン掲載されます。》
小説あるいは言葉の芸術素材として受け止めた求積は肉体的なものである。故に、言語が宿命的に持つ非現実化作用なくして現実を措定し得ないという矛盾の顛倒が三島由紀夫の予め言葉によって蚕食された肉体という劣等意識につながる。悪魔の技法である。
量子の位相が揃うという物理は、自発演算物理の基礎の一種ラムダ計算の一部である。自然数のラムダ計算にはゼロが必要だから物理現象が自発的に絶対矛盾的自己同一性に関する物理現象が存在することの証明である。これが自然に起こるということを想像できなかったのは量子の離散的数量は永遠に離散する観察が経験という狭い前提があったからである。量子力学と重力が統一されている最も基本的なレベルの自然の法則では、対称性が保たれないことがわかってしまい、対称性を前提に理論を拡張、物理現象を予測するのも逸脱であることが証明されている。今ということと情報の量子的性質によって構成される演算は実は経験作用の中で個別に統合されている。世界はそういう個別のリアリティの重ね合わせとしてはじめて存在可能である。故にリアリティの成り立ちからしてこの世は多重化された世界である。
故にその下の友情も国民国家も家族も根本的な統合的直覚の重ね合わせ、もっとも基本的な愛の重ね合わせがこの世の源泉であることが理解できなくなるほどに精度を求める科学の発展と真度の忘却を契機として世界は崩壊し始める。
まず結論から述べる。われわれは同じ演算の仕組みを通じてリアリティを共有している。この結論は混合数学や応用数学に限るものではない。共有するのはリアリティの契機となるモノではなくリアリティに至る計算過程である。われわれが世界を無限に理解できるというアトミズムが可能なのはモノの延長可能性を疑わない無理の結果であるが、実はわれわれは無限に世界の事実を共有できているのではない。逆にモノを契機とした計算過程の妥当性の延長可能性を疑わないから、単一世界の事実共有という真度が得られるのである。
ここに見た共有アプローチの違いは重大な違いである。われわれはもうこのことを知ったのだから、21世紀のわれわれは演算そのものを研究しなければ哲学を完成する、つまり哲学の真度を得る学問ができないはずである。演算とは目や耳に出力した電気現象の求積から生理的に得る原関数の推定である。この原関数の推定から得られる真度は、時には工学や応用数学で連続を前提としているラプラス変換を経由できるものである。最終的に明示的に指数関数の線型表現に落とせるものである。困難は真度には連続を前提としないものがあるという一見超自然的な自然が横たわっている点である。
前にも書いているが、『思考とその構造を測定することだけが哲学である。』という立場で私のリアリティ哲学は真度問題に近づいている。そのつもりでこれを書いている。故に私の哲学に神は含まれず、真度に関わる充足理由律だけが思考の対象である。
例えば数学が辿れるわれわれの側の通常のリアリティは連続関数までです。故にここで経験主義が不連続な入力の統合的直覚、絶対矛盾的同一性まで拡張されなければ、今という仮想の普遍性が理解できなくなる。それは宇宙の全体像を描くには非常に都合が悪いので、ここでは便宜上この構造を直覚(これを理解するにはライプニッツのモナドロジーを導きの糸とするしかない)としておく。因果の観念と実相を結びつける脳裏の関数化作用が統合的直覚であるが、この作用場をわれわれの側では今という。リアリティの源泉はその関数化作用であり存在や物質ではない。われわれの外側にもその作用場は拡がっていて、真の宇宙を形成している。われわれの世界の中であっても、その関数化作用が違う世代、違う民族は全く違うリアリティに生きている。人類はもうその関数化作用において数万年前から分裂を始めていて、動物の本能に近い即自的認識を除いては、統合的直覚を共有できなくなってしまった。音楽の世界を見てもスコアがあるから共感するのではない。本質的にはリズムとハーモニーの演算を共有することや演算を固定しない世界が開ける予測に興奮して共感する。演算過程が共有できなければ、世代を超えて伝達されることもない。もっとこの哲学を拡張するならば、動物と人間は脳裏の計算の延長可能性を共有していないから別のリアリティの世界に生きている。文明は常に向自的なので分裂し数学と数学以外が交流できなくなりバベルの塔のように建設崩壊する運命にある。しかし共有することは人類にとって本来難しい作用ではなかったはず、例えば統合的直覚の真実の最も古典的形態が愛であった。
奇しくもこんな研究が発表されている
《一般に量子状態の位相は、環境との相互作用により簡単に乱れてしまいます。この乱れやすさが、量子現象の観測や量子技術の実現を困難にしている大きな要因の一つです。今回研究グループは、多数の原子から成る量子系と環境との結合が位相を乱すのではなく、むしろ自然に秩序が生み出されるという新奇な現象を世界で初めて観測しました。具体的には図のように、極低温原子集団から、原子が選択的に閉じ込め領域の外に逃げ出すことによって、量子状態を構成する5つの波の位相が揃う現象の観測に成功しました。この研究の詳細は、2019 年 6 月 21 日に学術誌 Physical Review Letters でオンライン掲載されます。》
小説あるいは言葉の芸術素材として受け止めた求積は肉体的なものである。故に、言語が宿命的に持つ非現実化作用なくして現実を措定し得ないという矛盾の顛倒が三島由紀夫の予め言葉によって蚕食された肉体という劣等意識につながる。悪魔の技法である。
量子の位相が揃うという物理は、自発演算物理の基礎の一種ラムダ計算の一部である。自然数のラムダ計算にはゼロが必要だから物理現象が自発的に絶対矛盾的自己同一性に関する物理現象が存在することの証明である。これが自然に起こるということを想像できなかったのは量子の離散的数量は永遠に離散する観察が経験という狭い前提があったからである。量子力学と重力が統一されている最も基本的なレベルの自然の法則では、対称性が保たれないことがわかってしまい、対称性を前提に理論を拡張、物理現象を予測するのも逸脱であることが証明されている。今ということと情報の量子的性質によって構成される演算は実は経験作用の中で個別に統合されている。世界はそういう個別のリアリティの重ね合わせとしてはじめて存在可能である。故にリアリティの成り立ちからしてこの世は多重化された世界である。
故にその下の友情も国民国家も家族も根本的な統合的直覚の重ね合わせ、もっとも基本的な愛の重ね合わせがこの世の源泉であることが理解できなくなるほどに精度を求める科学の発展と真度の忘却を契機として世界は崩壊し始める。