公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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今ごろ読んでる 『アメリカのデモクラシー』 トクヴィル

2023-05-13 19:29:00 | 今読んでる本

アメリカの民主政治』(あめりかのみんしゅせいじ、: De la démocratie en Amérique)は、アレクシ・ド・トクヴィルが1830年代のアメリカの強さ・弱さについてフランス語で書いた古典的著書。全2巻(第1巻は1835年、第2巻は1840年)。原著の題名の逐語訳は『アメリカの民主制について』だが、通常は『アメリカの民主政治』と訳されている。本書はアメリカの民主制についての古典的説明とみなされており、重要な参考文献としてずっと利用され続けている。

トクヴィルのアメリカ視察

フランス政府は1831年、25歳のトクヴィルとGustave de Beaumontを、アメリカの刑務所制度を研究させるためにアメリカに派遣した。彼らは同年5月にニューヨーク市に到着し、9ヶ月間アメリカを旅して過ごした。この間、彼らは刑務所についてだけではなく、アメリカの経済政治体制を含む同国社会のあらゆる側面についてノートをとった。二人はまたカナダを訪問して、1831年の夏に当時のローワー・カナダ(現在のケベック州)とアッパー・カナダ(現在のオンタリオ州)で数日間すごした。

彼らは1832年2月にフランスに帰国したあと、1833年に "Du système pénitentiaire aux États-Unis et de son application en France" という題の自分らのレポートを提出した。Beaumontはほどなくアメリカにおける人種間関係についての小説を書いた。


この中にアメリカ人は母国のイギリス人より一般観念を好むと書いてあるのが目を引いた。今のアメリカ人のことではない19世紀前半のアメリカ人のことです。ではなぜそうなのか?未開地の広さかそれともデザイン可能な社会の青図が一般観念なのかそれはわからない。

しかしこう言っている

知識の開けた二つの国民の間にこのような相違があるのは驚きである。そして、もう一度イギリスに思いをめぐらせ、この半世紀にそこで起こっていることを考えると、一般観念の好みはその国の古来の国制が弱まるにつれて大きくなると主張できると思う。


日本の国制はどうだろう。この150年で大きく三回旧弊と称して廃した国制は数知れない。しかしこれにより一般観念が好まれた訳ではなく、日本人は金銭増加を好みこれを選択した。

イギリスの植民地は他の国の植民地に比べて、つねにより大きな内部自治と政治的独立を享受しており、それが繁栄の主要な原因の一つであった。けれどもこの自由の原理が、ニュー・イングランド諸邦におけるほど完全に適用されたところはどこにもない。  
この当時、新世界のどの土地も、それを初めて発見したヨーロッパの国に属すると一般に認められていた。  
北アメリカの沿岸部はこうしてほとんど全部が、一六世紀の終りにはイギリスの所有に帰した。英国政府がこの新しい領土に人を住まわせるのに用いた手段はさまざまであった。いくつかの場合には、国王が自分で選んだ総督に新世界の一部を委ね、総督が国王の名において、その直接の命令の下に領地を治めた11。これはヨーロッパの他の国で採用された植民地制度である。別の場合、国王が一定の地域の所有権を特定の個人あるいは会社に認めることもあった12。このような形をとると、民事上政治上の全権が一人ないし何人かの個人の手に集中し、この個人が王冠の監視と統制の下に土地を売却し、住民を統治した。
そして第三のやり方は、一定の移住者に母国の保護の下に政治社会を形成する権利を与え、母国の法律に反しない限り、すべてにわたって自治の権利を認めることであった。
1628年のチャールズ国王の特許状はこの第三のやり方であった。奇しくもこの年 権利の請願が議会により提出される。時は三十年戦争(1618~1648年)の最中です。それから400年経過した今日、二度と母国に反旗を翻すことのないよう新たな世界王を米国国民は国家破産と共に受け入れ強制されようとしている。

私は先に、人民主権原理がアメリカのイギリス系植民地の大部分で当初から起動原理となっていたと述べた。  しかしながらこの原理が、今日と同じように社会の統治に圧倒的な力をふるっていたとはとうてい言えない。  外と内に二つの障害があって、人民主権原理の進出を遅らせていた。  
植民地は依然として本国への従属を強いられていたから、この原理が法律に公然と謳われることはありえなかった。そのためそれは地方の諸集会、とくに自治体の中に身を隠すことになった。そしてそこで秘かに拡大した。  当時のアメリカ社会には、人民主権原理をそのすべての帰結にわたって採用する準備は備わっていなかった。
前章に示したように、ニュー・イングランドでは学識が、ハドソン河以南では富が、長い間ある種の貴族的な影響力をふるっており、そのため社会の諸力の行使は少数の人間の手に限られる傾向があった。公務員をすべて選挙で選び、国民がみな有権者であるというには、なお程遠かった。選挙権はどこでも一定の範囲に限定され、納税資格の条件があった。この条件は北部では非常に軽く、南部ではより重かった。  アメリカ革命が勃発した。人民主権の教義は自治体を出て政府を奪い、あらゆる階級がこの大義のために身を投げ出した。人はその名のために戦い、その名において勝利した。人民主権が法の上の法となったのである。  ほとんど同じように急激な変化が社会の内部にも生じた。相続法がついに地域の有力者の力を殺いだのである。  
法律と革命のこの帰結が万人の目に明らかになったとき、デモクラシーの勝利はすでに決定的に宣告されていた。権力は事実その掌中にあった。もはやこれに抵抗することは許されなかった。上流階級は不平も言わず抵抗もせずに、いまや避けがたくなったこの災厄に身を委ねた。失墜した権力に通常起こることが彼らの身にも生じた。個人の利己主義が一人一人をとらえたのである。人民の手から力を奪い返すことはもはや叶わず、大衆を憎悪するあまりこれに挑みかかるのを楽しむほどではなかったから、彼らはあらゆる犠牲を払って大衆の好意を得ることしか考えなかった。かくしてもっとも民主的な法律に、それによっていちばん利益を傷つけられる人々が熱心に賛成した。このようにして、上流階級は民衆の情念を刺激して敵意をかきたてるどころか、新しい秩序の勝利を自らの手で早めたのである。だからこそ、奇妙なことだが、民主主義の高揚は貴族制がもっとも深く根を張っていた州ほど抗いがたかった。


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