
大切な部分を抜き出しておく。
不思議なことに当時旅順砲台を攻略するのか、包囲陥落を待つのかは議論されていなかった。海軍の要請がどうしてもバルチック艦隊が到着する前に旅順を落とさなければ、連合艦隊といえども挟撃には攻し得ないという強い要請だった。結果的にそんなに攻略を急ぐ必要はなかった。海軍はバルチック艦隊に怯えていた。日本人の悪い癖は戦う前に敵を肥大化してしまうこと、怯える感情を隠すあまり、判断に合理性がなくなる。戦いは始まってからでも間に合うことが7割以上ある。交戦してわかる力量が実戦では大きな判断材料であることを机の上で無視するとこういう戦争をしてしまう。
『結果論になるが、バルチック艦隊が対馬沖に到来したのは、明治三十八年五月二十七日である。旅順要塞に対する総攻撃開始後九カ月、陥落後五カ月のあとである。こんなことなら、何をそんなに急ぐ必要があったのかという疑問は誰しも起こるはずである。しかし、日露戦争が勝利に終わったため、陸軍はこの苦い教訓をすっかり忘れてしまった。そして大東亜戦争で、また海軍の言いなりになって、広大な太平洋の島々に大兵をばらまくという愚をおかしてしまった。その結果は旅順の何十倍もの損害を出して敗戦に終わったのである。』
桑原 嶽. 乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す (PHP新書) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1197-1202). Kindle 版.
桑原 嶽 大正8年、大分県に生れる。昭和14年、陸軍士官学校(52期)卒。出征、砲兵小・中隊長として中支・北支に転戦。昭和18年、中野学校学生。昭和19年、南方軍遊撃隊司令部付(ビルマ・光機関)。昭和20年、インド国民軍第二師団連絡将校(イラワジ会戦)、第二十八軍渡河作業隊長(シッタン作戦)。昭和21年、復員、陸軍少佐。昭和26年、警察予備隊(陸上自衛隊)入隊。昭和28年、米国留学。学校教官、司令部幕僚、各級部隊長等を歴任し、昭和47年に退官、陸将補。昭和57年から平成4年まで中央乃木会事務局長、また昭和57年から中央乃木会理事を務める。平成16年、逝去