今日の日経に塩野七生が
「戦後復興に携わった下河辺淳さんが国土事務次官を辞める時、松下電器産業(現パナソニック)の松下幸之助さんに『ぜひウチに来てくれ』と言われた。でもその時に『工場からやってくれ』と条件を出されたからやめた方がいいと考えたといいます」
「松下幸之助さんは経営者として相当にバランスの取れた男です。しかし彼にも下積みをやらないと下積みのことは分からないという考えがあったのではないか。下河辺さんに言わせれば『それくらいの想像力がなくて国土計画なんてやっちゃいられない』と」
引用していた。想像力を信じる力は現場の場数が根拠となる。現場に出ている人間の力をどれだけ信じるかがマネージメントの基礎になる。
可能性を限定し賭けに出るイノベーションの場合は自分自身の想像力をどれだけ信じるかという自分との戦いになる。これが最も難しい。製造業のリーダーは両方ができる人材が必要だが、どうしても現場が必要という松下幸之助さんの意図が役人下河辺には理解できなかった。尚調べてみたが膨大な、下河辺 淳 アーカイヴス 検索で、イノベーションというキーワードでヒットするものは一つもなかった。
『ロータリーエンジン(RE)の開発を指揮し、世界に先駆けて量産を成功させた元マツダ社長の山本健一(やまもと・けんいち)さんが20日、老衰で死去していたことが分かった。95歳だった。通夜、葬儀は近親者で済ませた。後日、お別れの会を開く予定。
1922年、熊本県生まれ。旧海軍を経て46年、東洋工業(現マツダ)に入社した。63年、REの実用化を担う研究部長に就いた。ドイツで開発されたが、実用化されていなかったREの欠点を克服して実用化し、「REの父」と呼ばれる。搭載した車を日本や米国でヒットさせた。84年に社長に就任。87年に会長になり、92年に相談役最高顧問になった。』
《武田薬品工業は、100年以上の歴史を持つ大阪工場敷地(16ヘクタール、大阪市淀川区)の約4割を、来年夏にも売却する方針を固めた。将来的には全敷地の売却を視野に入れる。武田は、アイルランド製薬大手の巨額買収などで巨額の有利子負債を抱えることになるため、資産売却を進めている。阪急阪神ホールディングス(HD)などが土地取得に関心を示している。》
下河辺淳
1923年9月30日に下河辺収の長男として東京府東京市(現・東京都)で生まれた[http://www.ued.or.jp/shimokobe/]。1947年、東京大学第一工学部建築学科卒業[]。在学中に終戦を迎えたため高山英華の下で戦災復興都市計画に参画し、卒業後戦災復興院勤務[1]。その後建設省入省。1952年に経済審議庁勤務[]。1957年、建設省に復帰、河川や港湾の総合開発計画など各種の総合開発計画に関与[]。1961年、「工業地の立地条件 - 計画単位及び必要施設に関する研究」で、日本都市計画学会石川賞論文調査部門受賞。
1962年からは経済企画庁総合開発局[]。「国土の均衡ある発展」を謳い、戦後日本における国土開発の根幹をなした全国総合開発計画(通称「全総」、1962年閣議決定)の策定に携わる。以後、2000年の21世紀の国土のグランドデザイン(五全総)に至るまで、長らく国土開発・国土行政に力を及ぼし続けた。1977年、国土事務次官に就任[]。1979年退官し、総合研究開発機構(通称NIRA)の理事長に就任[]。
退官後も「多極分散型国土」を掲げる第四次全国総合開発計画(四全総)の策定にも尽力。1992年から株式会社東京海上研究所理事長[]。「ボランタリー経済」に取り組む。社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)裁定委員会委員などを経て1995年からは阪神・淡路大震災復興委員会委員長として復興政策の立案に参画[]。 2003年に下河辺研究室を設立[]。
2016年8月13日に療養先で老衰のため死去[]。92歳没。
「戦後復興に携わった下河辺淳さんが国土事務次官を辞める時、松下電器産業(現パナソニック)の松下幸之助さんに『ぜひウチに来てくれ』と言われた。でもその時に『工場からやってくれ』と条件を出されたからやめた方がいいと考えたといいます」
「松下幸之助さんは経営者として相当にバランスの取れた男です。しかし彼にも下積みをやらないと下積みのことは分からないという考えがあったのではないか。下河辺さんに言わせれば『それくらいの想像力がなくて国土計画なんてやっちゃいられない』と」
引用していた。想像力を信じる力は現場の場数が根拠となる。現場に出ている人間の力をどれだけ信じるかがマネージメントの基礎になる。
可能性を限定し賭けに出るイノベーションの場合は自分自身の想像力をどれだけ信じるかという自分との戦いになる。これが最も難しい。製造業のリーダーは両方ができる人材が必要だが、どうしても現場が必要という松下幸之助さんの意図が役人下河辺には理解できなかった。尚調べてみたが膨大な、下河辺 淳 アーカイヴス 検索で、イノベーションというキーワードでヒットするものは一つもなかった。
『ロータリーエンジン(RE)の開発を指揮し、世界に先駆けて量産を成功させた元マツダ社長の山本健一(やまもと・けんいち)さんが20日、老衰で死去していたことが分かった。95歳だった。通夜、葬儀は近親者で済ませた。後日、お別れの会を開く予定。
1922年、熊本県生まれ。旧海軍を経て46年、東洋工業(現マツダ)に入社した。63年、REの実用化を担う研究部長に就いた。ドイツで開発されたが、実用化されていなかったREの欠点を克服して実用化し、「REの父」と呼ばれる。搭載した車を日本や米国でヒットさせた。84年に社長に就任。87年に会長になり、92年に相談役最高顧問になった。』
《武田薬品工業は、100年以上の歴史を持つ大阪工場敷地(16ヘクタール、大阪市淀川区)の約4割を、来年夏にも売却する方針を固めた。将来的には全敷地の売却を視野に入れる。武田は、アイルランド製薬大手の巨額買収などで巨額の有利子負債を抱えることになるため、資産売却を進めている。阪急阪神ホールディングス(HD)などが土地取得に関心を示している。》
下河辺淳
1923年9月30日に下河辺収の長男として東京府東京市(現・東京都)で生まれた[http://www.ued.or.jp/shimokobe/]。1947年、東京大学第一工学部建築学科卒業[]。在学中に終戦を迎えたため高山英華の下で戦災復興都市計画に参画し、卒業後戦災復興院勤務[1]。その後建設省入省。1952年に経済審議庁勤務[]。1957年、建設省に復帰、河川や港湾の総合開発計画など各種の総合開発計画に関与[]。1961年、「工業地の立地条件 - 計画単位及び必要施設に関する研究」で、日本都市計画学会石川賞論文調査部門受賞。
1962年からは経済企画庁総合開発局[]。「国土の均衡ある発展」を謳い、戦後日本における国土開発の根幹をなした全国総合開発計画(通称「全総」、1962年閣議決定)の策定に携わる。以後、2000年の21世紀の国土のグランドデザイン(五全総)に至るまで、長らく国土開発・国土行政に力を及ぼし続けた。1977年、国土事務次官に就任[]。1979年退官し、総合研究開発機構(通称NIRA)の理事長に就任[]。
退官後も「多極分散型国土」を掲げる第四次全国総合開発計画(四全総)の策定にも尽力。1992年から株式会社東京海上研究所理事長[]。「ボランタリー経済」に取り組む。社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)裁定委員会委員などを経て1995年からは阪神・淡路大震災復興委員会委員長として復興政策の立案に参画[]。 2003年に下河辺研究室を設立[]。
2016年8月13日に療養先で老衰のため死去[]。92歳没。