有名だが謎の歌 大和の国は何処のにあったのか? 舒明天皇〜641年 鴎は海は大和の山から見えますか? 明確にこの時点で大和と言ってた地方は今の奈良県ではない。
大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙けぶり立ち立つ 海原(うなはら)は 鴎(かまめ)立ち立つ 美うまし国ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は
長い時間が経過し、いよいよ東の空が赤く染まり始めた。 夜の紺色の空は瑠璃色に変わり、東の地平と空の隙間が黄色く輝き始めている。 あたりの人々は互いの顔が見え始めていて無言で存在を確かめ合った。互いの体が触れ合うように密集しており、傾斜のきついところに立つものなどは手で残った根などに支えを求めた。
ヒミコの墓はここ?
昔、伊弉諾尊、此の国を目(なづ)けて曰(のたま)はく、「日本(やまと)は浦安の国、細矛(くはしほこ)の千足(ちた)る国、磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまくに)。秀真国、此をば袍図莽句儞(ほつまくに)と云ふ」とのたまひき」
出典:坂本太郎ほか校注『日本書紀(一)』岩波書店、p243-244
秀真國(ほつまの国)と卑弥呼の邪馬壹国を仮に同じとして、このサスペンス仕立は描かれているが、当時の読みで邪馬台国(実は邪馬壹國)の当時の魏の支那語読みはシェマイと呼び、偶然だが秀真=シュウマに似ている。このシェマイは私の勝手な仮説では今でもユダヤ教で最も重要な唱え、キリストも大切な言葉と言った、「シェマイスラエル」の変形した伝承ではないかと思っている。シェマイスラエルとはイスラエルよ聞けシェマー・イスラエル、Shema Yisrael, ヘブライ語: שְׁמַע יִשְׂרָאֵל; 「聞け、おお、イスラエル」という元語はアルム語(アラム語(アラムご、ܠܫܢܐ ܐܪܡܝܐ, ラテン語: Lingua Aramaica)は、かつてシリア地方、メソポタミアで遅くとも紀元前1000年ごろから紀元600年頃までには話されており、かつ現在もレバノンなどで話されているアフロ・アジア語族セム語派の言語)だ。
池辺真榛
[生]天保1(1830).徳島
[没]文久3(1863)
江戸時代後期の国学者。徳島藩士。大坂で萩原広道に従って国学をきわめ,20歳のとき紀伊で本居内遠の門に入る。著書『古語拾遺新註』『大元実義』『加見能御霊』ほか。
池辺真榛
いけべまはり
[没]文久3(1863)
江戸時代後期の国学者。徳島藩士。大坂で萩原広道に従って国学をきわめ,20歳のとき紀伊で本居内遠の門に入る。著書『古語拾遺新註』『大元実義』『加見能御霊』ほか。
池辺真榛先生は 文政十三年徳島に生まる。二十歳の時本居内遠の門に入り国学を学び 二十六歳にして古語拾遺新註を完成す。この書は我が古典研究の貴重のものにて若年の先生が国事奔走の途次に成されし事は驚嘆のほかなし。世は江戸時代末期にて 夷船来航し国内騒然たり 三十歳の折 藩侯に召され江戸に上り時務の詔問に応へ また使す。のち致仕して南佐古に寓居し著述かつ時勢を憂ひ談ず。文久三年春 藩命により下獄 病を得て九月歿す。享年三十四歳なり。先生の稀有の偉業とその生涯を仰ぎ慕はれし保田與重郎先生の意志を継ぎ この碑を建つ 昭和五十八年三月 池辺真榛先生景仰会 建立
詳しくは本を読んでもらいたいが、ここでは霊的結合の一般法則を示しておく。
日本人の強さは同胞同士の霊的結合状態にあるということだ。
人間の自己意識というものは全くの虚妄で、仏教では小我など言われているが、誰もが生まれながらにして持っているので当たり前のように感じているが、実は自然界を見渡して、小我に沿って生きている生き物は人間だけだということが見えるだろう。犬や猫、馬やイルカのような高等な動物においては、小学生以上の理解力を示すことがあるが、彼らが小我を持っているというのは人間の誤解である。ほとんどの動物は霊的に他の個体と結合して生きている。人間だけが何か罰を受けるかのように小我を持ち続けている。これは本当は大問題のはずだが、少なくとも近代以降の哲学はこれを考察しない。
結合の方法が神聖な食事だということを全て忘れて我々は現代に生きる。
おそらくあの川中島、善入寺島にあったのは、大国主や事代主、その一族の天日鷲命を祭っていた最古の神社なのだ。 そうしておいて、島根県に出雲大社を造り、スサノオと大国主を島根に押し込めた。ただし、『出雲国風土記』に大国主の物語は一切現れないのだ。それこそが、『記紀』のねつ造の証拠である。現在の「出雲大社」は、古代から明治までは「杵築大社」(きづきたいしゃ)と呼ばれていて、明治四年に明治政府の命令により「出雲大社」と改称した。 これは近年の歴史だ。だが、日本人の多くは古代からそれがずっと、出雲大社だと思い込んでいる。巨大で壮麗な社殿がそう思わせるのだ。