昭和三十四年の矢次がインタビューした外遊後のチャーチルとの対話の思い出話しにも出てくるが、日英同盟は米国の反対があってやめることにした。これは私も歴史の前後から予想した通りだが、こう言うチャーチル本人の証言ははじめて見る。矢次もチャーチル回顧録に残すべきと言ってるが、そうはなっていない。
一般に、対支二十一ヵ条要求の五項に、「日本が中国を保護国化する野心があることを警戒したイギリスのなかに、日英同盟を廃棄すべきであるという主張が生まれた。結局第5項は日本が取り下げ、それ以外の項目を中国政府が受けいれ、中国国民に反日感情が強まった。」と教えられているが、真相は米国の動きなのでした。取り下げた項目に世界情勢を変える力があるとは思えない。おかしな歴史教育です。
写真は無関係
August 10, 1941. At the U.S.-British summit meeting on Newfoundland Island, Churchill said, "Japan must not be recognized as an independent nation forever after the war," and Roosevelt said, "We are now contemplating how Japan might attack the United States first."
矢次一夫(やつぎ かずお、1899年7月5日 - 1983年3月22日)は、大正・昭和期の日本の、労働運動家・浪人政治家・フィクサー。昭和研究会と並ぶ、民間の国策研究機関「国策研究会」の創立者の一人。大宅壮一は彼を「昭和最大の怪物」と評した。
このインタビューは1978年昭和五十三年〜1981年五十六年にかけてのものであるから、矢次は早い時期でも79歳のはず。ボケない人は明晰だなあ。1933年(昭和8年)、陸軍省から依頼され、統制派の幕僚・池田純久少佐*と結んで、国策の立案に着手。総合的な政策研究組織の必要を感じ、8年10月に、官僚、学者、社会運動家、政治家などを集めて国策研究同志会を組織。岸信介とはそのあたりからの縁であろう。1956年(昭和31年)、訪台した矢次は蒋介石中華民国総統と会談。日韓関係の改善を求める。日台韓の反共連盟の強化を目指していたとされる。1957年(昭和32年)、日韓会談再開のため、矢次は柳泰夏駐日韓国代表部参事官と李ライン抑留問題に関する秘密交渉を行う。同年、矢次の仲介で金東祚韓国外務部長官・駐日韓国大使が岸信介首相と接触。1958年(昭和33年)5月、岸信介の個人特使として訪韓。李承晩韓国大統領と会談。日韓併合について謝罪し、国交回復を打診。