「このスラブは薄い氷雪にびっしりおおわれ、凹凸の全然ない、タマゴの上を攀じるような危険な悪相を呈していた。どんなに卓越したクライマーでも、こんな際どいところはフリークライミングでは到底こなせない。「植村くんここは俺がやるよ」植村の責任が果たせる三角雪田までもう一息というところまできてトップを交代するのは、はなはだ失礼であったが彼はうなずいてくれた。」。。「死と栄光、垂直の世界では微妙なこの一瞬で決まるものだ。」
袋ごと星野のアイゼンを落とした今野に「しょうがない、諦めようぜ」星野は片足アイゼンになる。食糧も底をつく直前の出来事の中でこんなに優しくなれるならどんな困難も乗り越えられるだろう。(星野隆男は冬期アイガー北壁ダイレクトルート第2登、このグランドジョラス北壁冬期第3登と、世界初の三大北壁冬期登攀を成し遂げ1973年12月、穂高涸沢岳蒲田富士の雪庇を踏み抜き墜落死)
「一口のミルクと三粒のアンズこれが今日一日の活動源だった。」
「トップの今野君は岩棚をトラバ ースし 、最後のルンゼを登りきった 。十二時半 、今野 、星野 、堀口 、高久 、小西 、そして私の順で四二〇〇メ ートルのウォ ーカ ーピ ークに立った 。一瞬 、いままでの不安は消えた 。オレたちはついに生きぬいたのだ 。もう死ぬことなく 、生きて帰れるのだ … …と 。イタリア側斜面に降りそそぐ太陽は明るく 、美しかった 。一日中陽がさえぎられている北壁では見ることのできなかったすばらしい眺めだ 。下降ル ート偵察のときデポした食糧にありつき 、パン 、チョコレ ート 、サラミ … …を 、ただただ黙々と食べた 。カラッポの胃袋には 、これほどこの世でうまいものはなかった 。太陽がモン ・ブランに沈みかけるころ 、私たちは頂上を後にし 、南側の岩壁をアップザイレン (懸垂下降 )してクレバスの中で最後の夜を過ごした 。一月二日 、さらに岩稜をアップザイレンしてグランド ・ジョラス小屋を経て 、夕方 、イタリアのアントレ ーブに着いた 。サポ ートしてくれた鹿取 、手島 、関野夫妻 、三郎 、鈴木さんらが迎えにきてくれた 。また 、 「コングラチュラジオネ 」と 、正月のスキ ーにやってきていたひとびとから歓迎をうけた 。グランド ・ジョラス北壁登攀成功の代償は 、あまりに大きかった 。小西 、星野 、堀口 、今野の四氏は凍傷にかかり 、そして 、小西さんはついにエベレスト南壁への国際隊参加は不可能となってしまったのだ。」『青春を山に賭けて 』生きて還る 植村直己
帰国後メディアは凍傷に注目し煽ろうとした。何時の世も挑戦を理解できるのは挑戦者だけだった。
小西政継 (1938年(昭和13年) - 1996年(平成8年)10月)
1971年 - グランドジョラス北壁の冬季登攀に成功する(第3登)。この時、凍傷で両足指をすべて失う。
1976年 - 山岳同志会隊で、ジャヌー北壁の初登頂に成功する。
1980年 - カンチェンジュンガ主峰北壁の無酸素登攀を指揮、登頂に導く。小西自身は登頂に失敗。
1982年 - 日本山岳協会の合同登山隊の登攀隊長として、チョゴリ北壁の初登頂を無酸素での達成に導く。隊員の遭難により、小西自身は登頂を断念。
1983年 - 山学同志会の無酸素によるエベレスト遠征隊は登頂者を出すも、同時期にアタックをしたイエティ同人隊は吉野寛、禿博信が遭難。体力の低下により一線を退くことを考える。
1984年 - 「クリエイター9000」を設立し、本格的な登山から退く。
1993年 - アラスカ州のマッキンリーに登頂。
1994年 - 小西自らが「エグゼクティブ登山」と呼んだ、現在主流のガイド付きのスタイルで、再びヒマラヤ登山を開始する。「シルバータートル隊」同人に参加し、ダウラギリⅠ峰に登頂。自身初の8000m峰登頂となる。
1995年 - シシャパンマ中央峰に登頂を果たす。
1996年10月1日- マナスルに登頂後、消息を絶つ。
8年後の無名の若者たちのアタックはこちらを御覧ください。純真さとわがままの有様に無謀なことも青春の一部であった昔を思い出すことでしょう。写真はそちらからの無断拝借。みかけたら事後承認してね。
自分は山はやらないフィールドが山というだけで、ましてや冬山には絶対に近づけない。当時、知床で同級生が死んだ経験やレンジャーアルバイトの経験から無謀と思っていた。
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