生きているものならば完全に均一なランダムはない。完全に均一ランダムなものならば、生きていない。
しかし、これは物質の分布図としてみた場合は同義反復である。
完全に均一ランダムなものならば、生きていない。のだが、長期の時間を経て
一見、ホワイトノイズのように均一な変化のなかにも広大無辺の履歴が生じる。この巨大な情報の積み上げが産みだす量子もつれ履歴が巨大な計算機を創造する。進化的アルゴリズム計算機の代替として生命の起源である。と同時に計算機は止むことなく数の可能性を埋め尽くす。このように生命と精神が区別されていない状態(いつでも行ける)と考えるのが私独自の生命の原初観点(原初だからつねにここにある)である。生命の起源は、初めは情報として、次に物質として二重進化していると私は考えるが、生命科学はまだ物質以外の生命起源を研究対象にしていない。ここに生物学と哲学、数学の接点、大きなフロンティアがある。
確率密度の時間変化、空間変化、確率密度に差を見つける性質を生命は持っている。そういう性質があれば、生命と言って良い。未だに差が必然的に検出される数理が発見されていない。
完全な無秩序から統計的に秩序を形成するエネルギーまで生命の定義を拡張しなければ、生死は経験の実体論を越えでない。少なくとも分布差検出を可能とするエネルギーがわれわれの中に流れている。完全な無構造と構造の差を維持するには無生物にも大きなエネルギーが隠れていなければならない。
意識のよりマクロな観点では差を前提として確率密度関数を無意識に微分しているのが、勘というものだ。
勘には教師はいない。先行する観念がない。
勘が働く瞬間に、混沌のなかに傾きの差が見えて境目に線が引ける、区別ができる。
区別ができるということは其れが何によって存在するものであれベクトル空間の任意の領域に差分が生じるということだから、生命発生の基本となる数理は、重力の発生の原因となる量子もつれの発生と同時に同義である。非存在の連結という自己意識と我執の奥にあるものが物質進化の本質であるべきだろう。
そこから推量すると生命は宇宙進化の途上で生まれたのではなく、宇宙の軸となる重力が生じた極初期に生まれたこととなる。
勘と同じように、自己及び自己意識の誕生とは、量子もつれ*のように混沌と沈黙に対して線を引くことにほかならない。逆に死とは線が引けなくなる、差分を見失なうことだ。つまり量子的世界に潜む構造が無限の距離を関係付けるルートならば、目の前の混沌はすでに何億年も前のことに関係付けられた構造かもしれないと考え措くべきだ。
もともと我々は無として生まれ、少なくとも無という一つの連結、空集合を持つ。結論を仮定で申せば、この非存在の連結が私自身と言う観念の存在原因、原初的私である。その原初的私の原因が受精卵のごとき短時間では不可能であろう。長い時間変化、あるいは虚が実になるまで繰り返される単純な繰り返しの延長が何か別の変数となる原理がなければ、無という空集合定義が必然的に有限な原初的私を生み出すと定義できない。ここに小澤の不等式が関わる。なぜなら虚と実の差は原理的精度の問題であるからだ。差の累積、完全なランダムに後戻りできないという根拠にヒントがある。
個別のレベルでは、
生きている限り、己は己に対して無限に線を引いてゆく。一度勘働きが悟性として始まると固定化し観念となり、それを線引分割した概念が混沌に後戻りすることを拒否する。だから生身の人間が、生きながら線を引かない状態に差分のない混沌に還ることほど困難なことはない。しかし其れは遠い事でもない。
これが概念のビックバン。我執の居付きと己の滅却である。
己の執着を壊すのは容易ではない。東洋の宗教がこの分野で非常に発達していたことが『永遠の哲学』オルダス・ハクスリーに詳細に書かれている。
ちなみに
『「MKウルトラ」計画とは、LSDや他の「人を変える」麻薬を利用した二○年に及ぶ実験のことである。CIAに委託されてオルダス・ハクスリーと「核兵器廃止」運動の大御所バートランド・ラッセル(三〇〇人委員会の幹部政治家)がその指揮をとった。』
権威主義的に引用しているのでは無い。
自ずから働くそういう能力が外因に依らずに始まることの不思議を属性と置き換えたスピノザはもう一歩で、宇宙とともに無からうまれる自発的な概念の爆発をとらえたが、分類の体系にとどまり、ダイナミックな宇宙の自己運動ととらえることはできなかった。
『永遠の哲学』オルダス・ハクスリによると、まず莊子の真理の広め難いジレンマを引用し、ナポレオン戦争やクリミア戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦を例示して、偶像と象徴から離れられない宗教と人間の性を打ち破るためには、言葉と智慧の壁を超えなければならないと言う。
ここにオルダス・ハクスリが言う言葉と智慧の壁を超えるのは、ここでは言葉は省かれているが単にLSDを示唆している。 オルダス・ハクスリは自著の『島』にモクシャという解脱を誘発する物質が登場していたが、LSDの合成者である科学者のアルバート・ホフマンに『島』を贈呈するとき、「モクシャ剤の発見者ホフマン博士へ」というサインを添えたという記載がある。【A.ホッフマン『LSD-幻想世界への旅』 堀正訳、榎本博明訳、福屋武人、新曜社、1984年217頁。(原著 LSD-MEIN SORGENKIND, 1979)】
『非理性的生物は前方を見ることも後方をみることもなく、永続する現在の動物的な永遠のうちに生きている。本能がこれら生物の動物的な恩寵であり、絶え間ない霊感である。そこで彼らは自分たちの動物的なダルマすなわち内在する法に従って生きるよりほかの生き方をするようにと誘惑されることは決してない。それに対して人間は、推理力と、理性の道具のおかげで、(略)利己主義とめざめつつある霊性との内戦状態に入っているのである。』
悟空の釈迦の手のひらのウチの逸話「齊天大聖ここに至れり」の逸話を間に挟んで次のように書いている。
『このように我意や自己中心的な利口さが無為と化した場合においてこそ、空にして清浄なる魂の内部で永遠なる真如の活動が可能になるのであり、内なる高みにおいて永遠が知られるとき、外の世界において永遠は充実した経験として知られるのである。」
さて四つの戦争の支援者にこの言葉は届かず無力である。
オルダス・ハクスリが「絶え間ない霊感」と述べている清浄な魂こそが、混沌の光であり沈黙の音楽である。勘がもたらす実利に幻惑されずに、霊的体験の背景となった混沌と沈黙の永遠を忘れないような人間になれるだろうか?少なくともオルダス・ハクスリの薬物手法によっては実現し得ない。
語り得ないものは語らないことにしましょう。
参考
Quantum PhysicsTitle: The past of a quantum particleAuthors: Lev Vaidman
(Submitted on 28 Apr 2013)
Abstract: Although there is no consensus regarding the "reality" of the past of a quantum particle, in situations where there is only one trajectory with nonvanishing quantum wave of the particle between its emission and detection points, it seems "safe" to associate the past of the particle with this trajectory. A method for analyzing the past of a quantum particle according to the weak trace it leaves is proposed. Such a trace can be observed via measurements performed on an ensemble of identically pre- and post-selected particles. Examples, in which this method contradicts the above common sense description of the past of the particle are presented. It is argued that it is possible to describe the past of a quantum particle, but the naive approach has to be replaced by both forward and backward evolving quantum states.
Comments: 7 pages, 5 figures, to be published in PRA
Subjects: Quantum Physics (quant-ph)
DOI: 10.1103/PhysRevA.87.052104
Cite as: arXiv:1304.7474 [quant-ph]
(or arXiv:1304.7474v1 [quant-ph] for this version)
このブログの思想まとめ
*量子もつれ(量子エンタングルメント)
アインシュタインらが1930年代に行った思考実験に端を発する概念。アインシュタイン自身は、量子力学の問題点を指摘するために考え出したものであるが、その後実験でも確認され、最近盛んに研究されている量子情報や量子計算の理論で基本となる考え方である。
19世紀までのいわゆる古典物理の世界では、物理的状態に関する情報は、個々の自由度(たとえば粒子の位置や速度)に分解して理解することができた。しかし、量子力学の世界では、物理的状態を分解して理解することができないことがある。たとえば、遠く離れた2つの粒子に関して、一方の粒子についての観測が、もう一方の粒子の観測結果に影響を与えることがある。これを量子もつれと呼ぶ。
しかし、これは物質の分布図としてみた場合は同義反復である。
完全に均一ランダムなものならば、生きていない。のだが、長期の時間を経て
一見、ホワイトノイズのように均一な変化のなかにも広大無辺の履歴が生じる。この巨大な情報の積み上げが産みだす量子もつれ履歴が巨大な計算機を創造する。進化的アルゴリズム計算機の代替として生命の起源である。と同時に計算機は止むことなく数の可能性を埋め尽くす。このように生命と精神が区別されていない状態(いつでも行ける)と考えるのが私独自の生命の原初観点(原初だからつねにここにある)である。生命の起源は、初めは情報として、次に物質として二重進化していると私は考えるが、生命科学はまだ物質以外の生命起源を研究対象にしていない。ここに生物学と哲学、数学の接点、大きなフロンティアがある。
確率密度の時間変化、空間変化、確率密度に差を見つける性質を生命は持っている。そういう性質があれば、生命と言って良い。未だに差が必然的に検出される数理が発見されていない。
完全な無秩序から統計的に秩序を形成するエネルギーまで生命の定義を拡張しなければ、生死は経験の実体論を越えでない。少なくとも分布差検出を可能とするエネルギーがわれわれの中に流れている。完全な無構造と構造の差を維持するには無生物にも大きなエネルギーが隠れていなければならない。
意識のよりマクロな観点では差を前提として確率密度関数を無意識に微分しているのが、勘というものだ。
勘には教師はいない。先行する観念がない。
勘が働く瞬間に、混沌のなかに傾きの差が見えて境目に線が引ける、区別ができる。
区別ができるということは其れが何によって存在するものであれベクトル空間の任意の領域に差分が生じるということだから、生命発生の基本となる数理は、重力の発生の原因となる量子もつれの発生と同時に同義である。非存在の連結という自己意識と我執の奥にあるものが物質進化の本質であるべきだろう。
そこから推量すると生命は宇宙進化の途上で生まれたのではなく、宇宙の軸となる重力が生じた極初期に生まれたこととなる。
勘と同じように、自己及び自己意識の誕生とは、量子もつれ*のように混沌と沈黙に対して線を引くことにほかならない。逆に死とは線が引けなくなる、差分を見失なうことだ。つまり量子的世界に潜む構造が無限の距離を関係付けるルートならば、目の前の混沌はすでに何億年も前のことに関係付けられた構造かもしれないと考え措くべきだ。
もともと我々は無として生まれ、少なくとも無という一つの連結、空集合を持つ。結論を仮定で申せば、この非存在の連結が私自身と言う観念の存在原因、原初的私である。その原初的私の原因が受精卵のごとき短時間では不可能であろう。長い時間変化、あるいは虚が実になるまで繰り返される単純な繰り返しの延長が何か別の変数となる原理がなければ、無という空集合定義が必然的に有限な原初的私を生み出すと定義できない。ここに小澤の不等式が関わる。なぜなら虚と実の差は原理的精度の問題であるからだ。差の累積、完全なランダムに後戻りできないという根拠にヒントがある。
個別のレベルでは、
生きている限り、己は己に対して無限に線を引いてゆく。一度勘働きが悟性として始まると固定化し観念となり、それを線引分割した概念が混沌に後戻りすることを拒否する。だから生身の人間が、生きながら線を引かない状態に差分のない混沌に還ることほど困難なことはない。しかし其れは遠い事でもない。
これが概念のビックバン。我執の居付きと己の滅却である。
己の執着を壊すのは容易ではない。東洋の宗教がこの分野で非常に発達していたことが『永遠の哲学』オルダス・ハクスリーに詳細に書かれている。
ちなみに
『「MKウルトラ」計画とは、LSDや他の「人を変える」麻薬を利用した二○年に及ぶ実験のことである。CIAに委託されてオルダス・ハクスリーと「核兵器廃止」運動の大御所バートランド・ラッセル(三〇〇人委員会の幹部政治家)がその指揮をとった。』
権威主義的に引用しているのでは無い。
自ずから働くそういう能力が外因に依らずに始まることの不思議を属性と置き換えたスピノザはもう一歩で、宇宙とともに無からうまれる自発的な概念の爆発をとらえたが、分類の体系にとどまり、ダイナミックな宇宙の自己運動ととらえることはできなかった。
『永遠の哲学』オルダス・ハクスリによると、まず莊子の真理の広め難いジレンマを引用し、ナポレオン戦争やクリミア戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦を例示して、偶像と象徴から離れられない宗教と人間の性を打ち破るためには、言葉と智慧の壁を超えなければならないと言う。
ここにオルダス・ハクスリが言う言葉と智慧の壁を超えるのは、ここでは言葉は省かれているが単にLSDを示唆している。 オルダス・ハクスリは自著の『島』にモクシャという解脱を誘発する物質が登場していたが、LSDの合成者である科学者のアルバート・ホフマンに『島』を贈呈するとき、「モクシャ剤の発見者ホフマン博士へ」というサインを添えたという記載がある。【A.ホッフマン『LSD-幻想世界への旅』 堀正訳、榎本博明訳、福屋武人、新曜社、1984年217頁。(原著 LSD-MEIN SORGENKIND, 1979)】
『非理性的生物は前方を見ることも後方をみることもなく、永続する現在の動物的な永遠のうちに生きている。本能がこれら生物の動物的な恩寵であり、絶え間ない霊感である。そこで彼らは自分たちの動物的なダルマすなわち内在する法に従って生きるよりほかの生き方をするようにと誘惑されることは決してない。それに対して人間は、推理力と、理性の道具のおかげで、(略)利己主義とめざめつつある霊性との内戦状態に入っているのである。』
悟空の釈迦の手のひらのウチの逸話「齊天大聖ここに至れり」の逸話を間に挟んで次のように書いている。
『このように我意や自己中心的な利口さが無為と化した場合においてこそ、空にして清浄なる魂の内部で永遠なる真如の活動が可能になるのであり、内なる高みにおいて永遠が知られるとき、外の世界において永遠は充実した経験として知られるのである。」
さて四つの戦争の支援者にこの言葉は届かず無力である。
オルダス・ハクスリが「絶え間ない霊感」と述べている清浄な魂こそが、混沌の光であり沈黙の音楽である。勘がもたらす実利に幻惑されずに、霊的体験の背景となった混沌と沈黙の永遠を忘れないような人間になれるだろうか?少なくともオルダス・ハクスリの薬物手法によっては実現し得ない。
語り得ないものは語らないことにしましょう。
参考
Quantum PhysicsTitle: The past of a quantum particleAuthors: Lev Vaidman
(Submitted on 28 Apr 2013)
Abstract: Although there is no consensus regarding the "reality" of the past of a quantum particle, in situations where there is only one trajectory with nonvanishing quantum wave of the particle between its emission and detection points, it seems "safe" to associate the past of the particle with this trajectory. A method for analyzing the past of a quantum particle according to the weak trace it leaves is proposed. Such a trace can be observed via measurements performed on an ensemble of identically pre- and post-selected particles. Examples, in which this method contradicts the above common sense description of the past of the particle are presented. It is argued that it is possible to describe the past of a quantum particle, but the naive approach has to be replaced by both forward and backward evolving quantum states.
Comments: 7 pages, 5 figures, to be published in PRA
Subjects: Quantum Physics (quant-ph)
DOI: 10.1103/PhysRevA.87.052104
Cite as: arXiv:1304.7474 [quant-ph]
(or arXiv:1304.7474v1 [quant-ph] for this version)
このブログの思想まとめ
*量子もつれ(量子エンタングルメント)
アインシュタインらが1930年代に行った思考実験に端を発する概念。アインシュタイン自身は、量子力学の問題点を指摘するために考え出したものであるが、その後実験でも確認され、最近盛んに研究されている量子情報や量子計算の理論で基本となる考え方である。
19世紀までのいわゆる古典物理の世界では、物理的状態に関する情報は、個々の自由度(たとえば粒子の位置や速度)に分解して理解することができた。しかし、量子力学の世界では、物理的状態を分解して理解することができないことがある。たとえば、遠く離れた2つの粒子に関して、一方の粒子についての観測が、もう一方の粒子の観測結果に影響を与えることがある。これを量子もつれと呼ぶ。