「過去と未来との相互否定的に一である所が現在であり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立するのである。而してそれが矛盾的自己同一なるが故に、過去と未来とはまた何処までも結び附くものでなく、何処までも過去から未来へと動いて行く。しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、時間的空間として、そこに一つの形が決定せられ、時が止揚せられると考えられねばならない。そこに時の現在が《永遠の今》の自己限定として、我々は時を越えた永遠なものに触れると考える。しかしそれは矛盾的自己同一として否定せられるべく決定せられたものであり、時は現在から現在へと動き行くのである。」西田幾太郎
西田哲学のリズムで読めば《永遠の今》を見つけられそうだが、見つけたしてもそれは虚妄である。なぜならば、人間にとって今はどこまでも自己意識の区別作用から独立して存在しないため死後の存在を定立できない。裏を返せば今という人間の認識はあっても《今》という存在の独立した客観性はない。ゆえに生きている限り《永遠の今》も存在しない。
私たちの認識する現在はある種のアクティビストには永遠に観ることのできない現在である。アクティビストのスローガンはさておき、《永遠の今》は、神の恩寵であり人間には相対的今しかなく、それはあったとしても永遠に共有されない。
アルフレッド・コージブスキー/:人間は言語と生物学によって制限されているため、現実に直接アクセスすることはできない:/ 彼はイデオロギーを脳に巣喰う病原菌と看做した。ゆえに止まっている今に対して直接アクセスする方法は悟性と肉体を捨てるということです。とまで言う。
構造主義の嚆矢である。
全共闘で流行していた《永遠の今》の正体は、1948年革命群やロシア革命のような過去の出来事に関する白黒・善悪の意味反射・学習情報による社会幻視システムにすぎなかったと思う。そうでなければその頃の若者、今の75歳から70歳くらいは永遠に精神的若者であるはずだ。
他方西田幾太郎の「《永遠の今》の自己限定」とはかなり違うものである。自覚論の中の時間軸を雷に撃たれたかのような断絶のことを言っている。
西田:/現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。/:
絶対矛盾的自己同一の数学的事例
コッホの雪片 コッホ曲線
コッホ曲線(コッホきょくせん、英: Koch curve)はフラクタル図形の一つ。スウェーデンの数学者ヘルゲ・フォン・コッホ (Helge von Koch) が考案した[1]。線分を3等分し、分割した2点を頂点とする正三角形の作図を無限に繰り返すことによって得られる図形である。1回の操作で線分の長さが 4/3 倍になるので、操作を無限に繰り返して得られるコッホ曲線の長さは無限大である[2]。高木曲線などと同様に、連続でありながら至るところで微分不可能な曲線である[3]。
コッホ曲線は相似比が 1/3 の4個のセグメントから成っているので、フラクタル次元(相似次元)は、3 を底とする 4 の対数(logを必ずしも自然対数である必要はない任意の対数として、log 4/log 3 = 1.2618595...次元)である[4]。(A100831)
正解と思う現在とそれを結果解釈して合理化する動機(コージブスキーにおける抽象化)が両輪となって初めて現在が発見できるというのは、人間の精神一般に適応できる原理であるが、この発見から今と過去情報を連続と見ること自体が虚妄の中の虚妄である。その点ではまだ発展運動する世界の中で個物が多世界を限定するという西田幾太郎の観点の方が正しい。
アクティビストに見られるその極端な、通常あまり見かけない動機で現在とそれに関わる個人を捉える手法から、いわゆる普通とは違う革命前夜の現在という幻想が見えていると確信する。
西田幾太郎:/現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。而してそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。:/西田幾太郎
と西田幾太郎は極めて常識的に過去と未来の自己同一を論じている。
それでは、さて今とはなんであろうか?と考える準備ができた。
ここで応用できるのは
デデキント切断と呼ばれる数直線上の点による切断前後の場合分け解釈である。
デデキントは絶対にあり得ない有理数の切断上限数と切断下限数の共存(つまりその中点も有理数という矛盾が導かれる背理法で)を否定した。
しかし人間はこの数直線上の時間の流れに身を置いていた場合、最も近い未来と、最も近い過去を悟性で分別認識しているのであって、両者はあたかも悟性の対象として捉えうる有理数のような出来事となるのだが、人間は己の中で上限と下限が共存しているかのような錯覚を持っている。
ここでモナドを思い出してみてほしい。区別と区別作用は生きているものにとっては一体のものである。区別なき区別作用は死後の魂そのものである。
しかしデデキント切断と同じように、
試みに時間の切断を任意の点でやってみよう。ここでも「今」の切断と切断する(今を見つける)作用は同じモナドであり一体である。西田幾太郎的な個物が多を限定するというのも一種の切断と切断作用である。
生きている人間の作用を抜きに今を切り出すことはできない。
過去と未来の中点が今とはならない。仮に今というものに微小な幅があったとしても、それはなお微小和中点をもち、点は有理数のような悟性の区別作用の対象であるはずで、区別できるものは過去か未来かのどちらかを見る世界に帰属するはずである。それが区別作用である。
したがって過去と未来の中点のようなものが今と直接仮定したこと自体が誤りであって、
今は過去や未来とは無理数と有理数の関係と同様に全く性質の異なる存在である。
なぜなら過去も未来も存在せず
存在するの今であるから。
スティーブン・ホーキングは虚数時間という考えを提唱
スティーブン・ホーキングが虚数時間を導入した理由は、彼の有名な宇宙論に関する研究に由来しています。ホーキングは一般相対性理論と量子力学を統一するために取り組んでおり、特に宇宙の始まりであるビッグバンやブラックホールの物理学に焦点を当てていました。
彼の研究において、虚数時間を導入することで、時間の概念を宇宙論の数学的なモデルに適用する際に生じる問題に対処することができました。具体的には、ビッグバンやブラックホールの場合、通常の時間の流れとは異なる時間の挙動が観察されるため、通常の実数による時間だけでは適切に説明できない状況が生じたのです。
虚数時間を導入することで、物理学者たちはより広い範囲の現象を記述し、理解することができるようになりました。このような数学的な拡張は、宇宙論や量子重力理論の分野で深い洞察をもたらし、新たな理論の構築につながる可能性があります。
虚数時間の存在を直接的に観測または実証する証拠は、現時点では存在しません。実際、虚数時間は通常の時間の概念とは異なり、数学的な枠組みや理論モデルの中で使用される抽象的な概念です。
一般的に、物理学や宇宙論の理論的な枠組みでは、虚数時間は特定の数学的な手法やモデルを使用することで有用な結果をもたらすことがありますが、これは数学的な便利さであり、物理的な現象として直接観測されるものではありません。
現在の物理学の枠組みでは、通常の実数による時間が我々の宇宙における時間の記述において有効であり、虚数時間は主に理論的な探求や数学的な便利さのために使用されています。将来の物理学の発展によって、実際の観測や実験によって虚数時間が重要な役割を果たす可能性は否定できませんが、現時点ではそのような証拠は存在しません。以上AI見解
今という限定の特殊さは生きた個物の切断作用がなくても独立に存在し続けるということ。一言で言えば作用形の今は人のものだが存在形の今は、神のものである。これを永遠の今と言っても、人間の切断作用の及ばない何もできない虚である。