公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

『可能世界の哲学  「存在」と「自己」を考える』無世界論とは違う世界論

2019-08-12 18:46:23 | 今読んでる本

NHKブックス No.790
可能世界の哲学  「存在」と「自己」を考える
[著] 三浦俊彦
《自然科学の進歩を支えるのが数学なら 、人文科学の進歩を支える基盤は哲学であり 、論理学であると言えるでしょう 。哲学 ・論理学の分野でも 、現実のあり方に囚われない 「何でもあり 」の精神が目覚ましい成果をあげつつあります 。その中枢の武器が 、本書で扱う 「可能世界 」という概念なのです 。数学の扱う数や量に限らず 、あらゆる存在や概念 ― ―現実の偶然のあり方に縛られないさまざまな存在の共存の仕方 、結びつき方 、概念どうしの関係などを 、辻褄が合う限り全部認めて 、可能性を探究するのが論理学です 。 「可能世界 」という装置は 、そうした無数の可能性という抽象的な観念が 、それぞれ独立した存在として実体化されたものなのです 。ちょうど芸術家や格闘家が 、 「ノールール 」の営みを頭だけで考えるのではなく実際に行なったことからいろいろな価値観が明るみに出 、隠れた真実が見えてきたのと同じように 、無数の 「可能な世界 」を各々独立した存在として扱い 、配列し 、増やしたり減らしたりし 、合成し 、分割し 、並べ替えたりすることから 、哲学 ・論理学における多くの問題が解決されることになったのでした 。》

失格



わたしたちにとって世界とは何か。わたしたちは世界の何なのか。滅びの呪文を何万とtweetしてもこの世界は滅びない。しかし本来無一物。この世の消滅を望む者も望まぬ者も実体がない。


少なくとも創造的であろうとする者にとって世界は苦痛の種であり、脱出的創造の母であり、振り返れば世界は故郷である。主観と客観は直かに境界を接し、身体肉体は直接の客観であると言ったのはショーペンハウアーである。そのうえで、世界はわたしの表象である意志と表象としての世界: Die Welt als Wille und Vorstellung)は、1819年)と述べている。信じている世界から(観念論や唯物論やそのほかの迷信)世界を知識として知る前の状態を当然に世界はわたしの表象であると述べているのだ。


世界は苦痛の種である。

苦痛の一つ、まずわたしたちは有限である。神に愛されていたとしか思えないほど宇宙の創造物の受信機だったマイケル・ジャクソンでも有限だった。わたしたちのような有限なものに『接している』(一対一で関数を介して対応=単射しているモナド)世界は有限である。この論理の階段に哲学者が登ってこれたならば、次いで起こる世界観の飛躍からは追従が容易である。もし、われわれが無限なるものに接しているとしたならば、つまり意識と感覚の総和によって一対一対応しているわれわれは、無限でなければならない。一対一対応とはある種の関数を内在する装置自体であるわたしたちの存在様式であり、自然数が無限にあるとしたならば、偶数も無限にあると対応させることができると同じく、無限に接するものは同じ密度で無限である。ここでわたしたちとは一応生きている間の個人の出来事を意味する。故にこの出来事は無限でないから世界が無限であるという仮定した世界観念は間違っているという結論か、まったく別の世界観からなる結論を持たなければならない。われわれと世界は共に有限で、無限密度の違いでさえない。しかし有限なわれわれが超越的に無限を論理的に空想する能力はわれわれとは違う別のものを通じで『接している』という結論になる。


わたしたちは古い記憶を忘れているから、世界と自分の最初の媒介関数が何であったかを忘れてしまっているが、どのようにしたならば、関数の数を増やせるのかは想像できる。つまり頭脳は古い関数を雛形にして応用型を作って新しい関数を生み出す。それによって複雑化が可能なことは人工知能が証明している。

ここにわたしたちにとって世界とはわたしたち自身の@@である。という結論が導かれる。これは一種の無世界論でもあるので、慎重に言葉を選ぶ必要がある。《マイモンによって「無世界論」の名を与えられ,これがヘーゲルへと伝えられる。》



 『哲学事典』(平凡社、1979年)
・カントに反対して、感性と悟性とを統一する共通の根を、意識に求め、能動的な力は意識自体にあり、客観は認識能力そのものの中で、その働きの対象となるものだと考えた。したがって、客観は意識の機能から独立ではなく、意識機能と客観は相互に規定しあうとした。意識外の物自体による感性の触発という考えを、とらなかった。物自体の概念は矛盾した概念で、認識できないのみならず、思惟することすら不可能だと主張した。意識は自らの内から生み出したものについてのみ、完全な意識をもつが、どうして生じたか不明なもの、すなわち所与については、不完全な意識しかもちえないと考えた。かかる所与をマイモンは、ライプニッツの「微小知覚」にならって、「意識の微分」と名づけたが、カントにおける感性と悟性の対立も、結局、不完全な意識と完全な意識の対立にほかならず、両者(感性と悟性)はその極限のばあいと考えた。カントにおける「質料」と「形相」の区別も相対的なものであって、両者はカントの意味におけるイデーであり極限概念であるとした。カントのいう経験を否定し、普遍的・必然的な認識は数学においてのみ可能であって、経験とはたんなる知覚にすぎぬとして、ヒュームの懐疑論の立場にたった。倫理学についてもカントに反対し、道徳行為の動機は、快感から引き出される固有の価値感情であるとした。以上のように、カントの物自体の批判を通じて、意識の能動的一元論の立場を志向した。

《ザーロモン・マイモン、シュロイメ・ベン・ヨシュア・マイモン(Salomon Maimon, Solomon ben Joshua Maimon, 1753年 - 1800年11月22日 シレジア・ニーダージーガースドルフ)はリトアニア出身のドイツの哲学者。カント批判を行ったことでもっとも知られている。》


 


マイモンについては私はこれ以上を知らないが、『所与については、不完全な意識しかもちえないと考え』たマイモンの慧眼は、《非所与としての所与》が自己という課題を見据えていた。しかし意識外の出来事を拒絶して失敗している。知り得ないことを”知ら”なければ不可知無世界の肯定に陥る。


そういう経緯から
極度仮説有限世界がわたしのこの度の破である。今わたし自身の確信《非所与としての所与の自己》からなる哲学の中に革命を起こそうとしている。
わたしの可能世界論では、現実世界は無数の『可能世界のなかの一つの有限』であると考える。《可能世界の考えはライプニッツに始まるとされる。ライプニッツは可能世界の概念を神の心に結びつけて用い、現実に創造された世界が「全ての可能世界の中で最善のものである」と論じた。》わたしの提唱する分岐的多世界理論を参考とした 《非所与としての所与の自己》の更なる自己単射関数の自己増殖であるというリアリティに対する考えは無数の可能性を持つ世界が選択されうる認識メカニズムの仮説である。世界はライプニッツの言う神に備わるべき最善ではなく、逆に必ずしも最善ではなく見たいものしか見ない、われわれにとっての利己的最適世界の選択に過ぎない。宇宙存在論はここに完全に埋葬された。われわれは利己的関数に従って分岐した世界を選んだだけである。「生命中心(biocentrism)」主義もこの考えの一種である。
わたしたちにとって世界とはわたしたち自身の最適(選択あるいは実現)である。としてみよう。と自分に問う。これがわたしの心の居付きを捨てるための破である。この先も何度も哲学魂を捨てるだろう。自由とはこのようにして最後にやってくる。


機械学習においても持続する結論や仮説は理解のベースである。完全と持続を破壊することだけが神ならぬ人間に出来ること。

In this article, I argue that “understanding” exists along a continuous spectrum of capabilities.





以下2019.8.27 追補TOCANA 2017年2月9日 07:30 より

輪廻転生が実在することが量子論で判明! 専門医「死後、あなたの意識は次の人の脳に張り付く」

輪廻転生が実在することが量子論で判明! 専門医「死後、あなたの意識は次の人の脳に張り付く」
輪廻転生(リーインカーネーション)は実在するのだろうか?オカルトや宗教の世界では当たり前のように語られてきた超自然現象であるが、現代科学では未だに迷信として退けられている。しかし、この度ついに前世の存在を決定づける研究が報告されたのだ!


■意識は前世の記憶を引き継いでいる

今回のニュースを報じた英紙「Express」(2月4日付)によると、米ヴァージニア大学医学部精神科のジム・タッカー博士の研究により、前世の記憶を持つ子どもの存在が決定的になったという。

タッカー博士は、前世の記憶を持つ子どもたちに15年にわたりインタビューを続けてきた、少々変わり者の研究者として知られる。その成果は、経験したはずもない出来事の記憶や、前世の傷や痣などを持つ、輪廻転生したと思しき2500人もの子どもたちの記録を収録した著書『Life Before Life: A Scientific Investigation of Children’s Memories of Previous Lives』にまとめられている。

【その他の画像はコチラ→http://tocana.jp/2017/02/post_12259.html】

タッカー博士によると、意識は量子レベルのエネルギーであるため、輪廻転生の説明は科学的に可能であるという。これまでトカナでも報じてきた通り、現代の多くの科学者が、意識の謎を解く鍵は量子力学が握っていると信じている。例えば、米「タイム」誌の「世界で最も影響力がある100人(2014年度)」にも選ばれた、再生医療の専門家ロバート・ランザ博士は、「生命中心主義(biocentrism)」を標榜し、物質ではなく生命と意識こそ現実理解のための基礎的な要素であると断言、意識は肉体的な死とは別物である上、脳が意識を生み出しているわけではないと主張している。

博士も「生命中心主義」のテーゼを受け入れ、意識は肉体の死後も生き残り、次の宿主の意識として活動すると語っている。

「量子論の創始者であるマックス・プランクなど、一流の科学者は物質よりも意識が基本的であると語りました。つまり、意識は脳が生み出したのではないのです。脳や肉体の死後も意識は生き残り続けます」(タッカー博士)
「ですから、意識は前世の記憶を保ったまま、次の人の脳に張り付くのです」(同)


■前世の記憶を持つ少年

輪廻転生の証拠として博士は、前世の記憶を持つジェームズ・レイニンガーくん(当時2歳)をあげている。ジェームズくんは、おもちゃの飛行機に異常なまでの執着を持ち、飛行機事故の悪夢を見るという不思議な経験を繰り返していた。そこで、タッカー博士はジェームズくんに悪夢について尋ねたところ、「自身はパイロットで、とある船から飛び立った」と語ったという。さらに父親が詳細を尋ねると、Natomaと呼ばれる船から出撃したこと、硫黄島で日本軍に撃墜されたこと、ジャック・ラーセンという友人がいたことまで克明に記憶していたという。

その後、第二次世界大戦当時の記録を調査すると、当時たしかにUSS Natoma Bayと呼ばれる航空母艦が配置されており、硫黄島の戦闘にかかわっていたことが判明。その上、ジェームズ・ヒューストンという男の戦闘機が、ちょうどジェームズくんが描写した通りに撃墜されていたことまで記録されていたというのだ!まさに、前世の存在を決定づける証言であるが、ジェームズくんの記憶は5~7歳ごろまでにすっかり消えてしまい、現在は全く覚えていないという。タッカー博士によると、この年頃で前世の記憶が消えるのは典型的だそうだ。

輪廻転生が存在するとすれば、前世の因縁や人間関係が現在の生に影響を及ぼしていることもあるかもしれない。実際、長いスパンを持った生命観は数千年前から仏教やヒンドゥー教で受け入れられてきた“事実”である。ついに現代科学も狭い殻を抜け出し、広大なオカルトの世界へ足を踏み入れる準備が整ってきたようだ。
(編集部)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 昨日の日帰り観光 | トップ | 雷雨の間で散歩 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。