公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

雲竜の巻

2015-02-14 09:07:21 | 今読んでる本
勝海舟との初対面のあと長州征伐を巡り西郷は大いに変身した。時、処、位の構図が勝の言葉で変わった。幕府には号令する力がないと見切った勝海舟の慧眼に見開いたのだろう。


『勝という人は 、終始一貫 、日本対外国ということだけを考えて 、勤王 ・佐幕の抗争などは冷眼視 、といって悪ければ 、第二 、第三に考えていた人である 。明治になってからの彼のことばだが 、 「愛国ということを忘れた尊王など 、意味のないものだ 」というのがある 。西郷とのこの最初の出会いの時 、勝が上述のようなことを言わないはずはないと 、ぼくは思うのである 。』

『「勝氏へはじめて面会しましたが 、実に驚き入った人物です 。最初はやっつけるつもりで出かけたのですが 、とんと頭を下げました 。どれほど智略があるやら知れない風に見受けられました 。先ず英雄肌合の人物です 。佐久間 (象山 。この二月前に京で攘夷浪士に暗殺されている )より事の出来ることは一段まさっていましょう 。佐久間は学問と見識とは抜群の人物でしたが 、実地の手腕にかけてはこの勝先生まされりと 、ひどくほれました 」
西郷がほれただけでなく 、勝の方もほれて 、この後西郷の人物をほめることが一通りでないので 、当時勝の海軍塾の塾頭をしていた坂本龍馬は、
「先生がそれほど感心しておられる人物なら 、よほどのものでしょう 。拙者も逢うて見たいです 。紹介状を書いて下さい 。一つ行って逢うて来ます 」といって 、勝の紹介状をもらって 、京都に行き 、西郷を訪問して会って来て 、勝に 、「西郷という男は大太鼓のような男でありますな 。小さくたたけば小さく鳴り 、大きくたたけば大きく鳴ります 。馬鹿なら底の知れない大馬鹿 、利口なら底の知れない大利口ですな 」といった 。勝は感嘆して 、 「評せられる人も評せられる人 、評する人も評する人 」と 、書きのこしている 。』


他方西郷隆盛は中岡慎太郎に評されてこう描かれている。


『「当時洛西 (京都以西の意 )の人物を論ずれば 、薩藩では西郷吉之助でしょう 。人となり肥大で 、御免 (土佐の地名 )の要石 (角力とりの名前 )におとらず 、古の安倍貞任 (腰囲七尺 ― ―二米十三糎弱あったといわれる )もこうだったろうかと思われるほどです 。この人は学識あり 、胆略あり 、いつもは口数が少いが 、最も思慮雄断に長じて 、時に一言を出せば 、その確然たること人の腸をつらぬくほどであります 。その上 、徳望高く人を心服させる人物です 。これまで数々の艱難を経験して来ていますので 、すこぶる事に老練しています 。その誠実なことは武市 (半平太 、土佐勤王党の首領 )に似ていますが 、学識があり 、真に知行合一の人物です 。現時 、京都以西第一の英雄であります 」と 、最大級の賛辞をつらねて書きおくったのは 、これより少し後のことであるが 、この時が西郷と(中岡と)の最初の出会いであった 。これが機縁となって 、やがて最も親しくなり 、ついに薩長連合に努力するのである 。』

出会ってはいないかもしれないが、月形洗蔵という福岡藩の人物がいる(ほとんどドラマには登場しない)この人物は史料にもこのように記されている。
『土佐藩の土方久元(後に伯爵になり、大正七年に死没)の証言

秘密に薩長連合の端を開いたのは長府に三条さんが御在になつて居る所へ筑前の月形洗蔵が来て、言ひ出したが初だ。薩長和解の話は筑前が元です。」(明治38年『史談会速記録』)
』福岡藩出身で樺戸監獄、集治監の初代典獄となる月形潔は従兄弟にあたる。
西郷隆盛がその人物を「志気英果なる、筑前においては無双というべし」と称えた。
筑前の勤王も水戸の勤王も今は忘れられてしまった。まことに残念なことだ


『問題には時機がある 。ことを急いでこの論を唱え出しては 、幕府で離間策を講ずることは必定であるから 、必ず破れる 。異国人らが大坂湾に乗りこんで来る時を見はからって 、はじめて唱道し 、一気呵成に運びつける必要がある 。かくて 、雄藩連合が成立したなら 、いつまでも共和政治をやり通す必要がある 。よくご思案ありたい 」
「共和政治 」ということばを 、西郷は使っているのである 。維新史関係の文書類では 、ぼくにはこれが初見であるが 、この後には他の人々の文書にもまたよく見る 。ここでの用例によると 、この共和政治は西洋式のものではないことが明らかである 。史記の 「周本紀 」に 、周の霊王が事情があって国を逃げ去って長い間帰って来なかったので 、周の重臣らが合議して政治をとった 、これを共和といったとある 。つまり 、この時代の人々の使った共和はこの意味の共和であった 。』


大西郷は反乱まで起こしたので、複雑な人間と解釈されがちだが、実は時代の方が複雑だった。鏡のように時代を写し込む西郷の心の作用がそうさせた。

世間の恨みはどのようなときに発生するかというと、強者の理不尽に対してよりも弱者の理尽に対して発生する。大西郷が弱者とは受け入れがたいかもしれないが、西郷はいつも正義をもって理尽し、つねに大きな権威、権力に立ち向かい発言した。西郷の行動を制約するのはもはや天命だけだった。恨みを買うことぐらい大西郷には小事だったろう。

彼は鏡のように時代を写して変化したにすぎない。中江藤樹と同様に大西郷には、大いなる虚があるから、二人とも心に大きな情の容量がある。これを大いなる精神力=共感知性とも言える。
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