公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

ニーチェを誤解するな 『青空の下で読むニーチェ』 宮崎正弘 より

2021-07-18 09:30:00 | 今読んでる本
人間の観念一般にニーチェを虚無主義とかニヒリズムとかと勝手なラベリングすることから目覚める時が来た

『青空の下で読むニーチェ』 宮崎正弘 より
「真の世界と呼ばれてきたものが虚構された世界なのであり、『仮象の世界』と言われてきたものが、現実の世界なのだ。…理想という嘘がこれまで現実の世界の上に蔽い被さっていた呪いであった。この嘘によって人類自体がいつしか本能の一番奧底の隅々に至るまですっかり出鱈目になり、まやかしになってしまった」 (西尾幹二訳『この人を見よ』、新潮文庫)  
そして次のように言い切るのだ。 
「人類がこれまで大真面目に考量してきたことは、そもそも現実の存在でさえあるまい。単なる空想である。もっと厳密に言えば、病的な、もっとも深い意味において有害な人々の劣悪な本能から発した嘘の数々である。――すなわち『神』『霊魂』『徳』『罪』『彼岸』『真理』『永遠の生』などの概念の全てが嘘なのだ。…にも拘わらず人々は、人間の本来の偉大さ、人間の本性の『神的性格』を、これらの概念のなかに探し求めてきたのだった。…そしてそのおかげで政治、社会秩序、教育などのあらゆる問題は、底の底まで偽造されてしまい、結果的に最も有害な人物が偉大な人間と受け取れるようになったり、――いわゆる『ささやかな』物事、私に言わせれば生の基本方針を、軽蔑することを教え込まれたりするようになったのである」 (同西尾訳)  
これらがずばりニーチェが問いかけた、革新的な思想の肯綮(コウケイ、物事の急所)である。まさに「結果的に最も有害な人物が偉大な人間と受け取れるようになった」のが現在の世界だ。


なぜなら神は検証される対象ではなく、心に感じられるもの、である。 「キルケゴールは、生暖かい遵奉主義よりもむしろ熱情的な異端を選ぶことで、また苦しい自己探求の道を進むことで、そして何よりも、危険を内包する新約のあの根源的反抗精神とはまったく対蹠的な惰弱な精神を弾劾することで、ウナムーノの精神的先達であった」のである。

新約聖書は宗教心のガイドと考えるよりもイエスの死の意味を見つめた文学作品と考える方がキルケゴール以後の現代解釈にふさわしいだろうと思う。私は実際に歴史上磔刑になったのはユダであり、イエスは売春婦とともに姿を消したと考える一人である。最後の晩餐のイエスの言葉はそのすり替え計画の予告であり、イエスは神が求めた生贄にふさわしい弟子はユダしかいないと考えた。イエスの磔刑の死というテーマは生贄という犠牲を差し出すことで同胞の尊い心のあり様を神に証明する性質の論理であることはキリスト教の遵奉精神中に一貫している。これをキルケゴールは不十分で時代遅れと考えた。ニーチェは善僕の擬制、病的な嘘と言った。ニーチェになりきれないニーチェがキルケゴールである。

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