公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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青木文書

2024-05-12 20:14:00 | 意見スクラップ集
三河南朝(三河吉野朝)の伝承が面白い。

三河吉野朝の終焉

三河吉野朝の終焉は、最終的には明徳の和約が成立した元中9年/明徳3年10月27日(ユリウス暦1392年11月12日)
実質的には天授5年(1379年)秋から天授6年(1380年)の春に行われた武家方の攻撃による。
青木文献によると、天授5年(1379年)9月20日、長慶院法皇が崩御したと記録されている。南朝史学会の藤原石山は、天授5年(1379年)の長慶院法皇崩御については、1385年(元中2年/至徳2年)9月「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に納めた宸筆願文が存在する事から、後醍醐天皇の皇女「懽子内親王」が身代わりになったと考察している。
また、地元の伝承によると、山名氏清が甲斐の軍兵2800騎を率いて東三河に進撃して来たため、三河吉野朝の東の防塁であった和田城を拠点としていた青木和田尉盛勝が天授6年(1380年)1月6日に戦死した。また翌天授6年(1380年)には、三河赤坂落合の合戦で楠正儀が戦死した。その時期は「稲の植え付け時」と伝承され、楠正勝の子孫・小久保家に伝承された楠正儀の位牌には「明徳院光全大士、天授6年5月9日、楠正儀、51才」と記録されている。


『『青木文献』この文書は後醍醐天皇の忠臣・千種忠顕ちぐさただあきの孫にあたる青木平馬へいまが応永30年(1423)に書き記したものだという。
南北朝の争乱がはじまったとき、千種忠顕は後醍醐天皇に従ったが、比叡山山麓で戦死してしまった。だが彼の一子・青木 和田尉 盛勝が三河国玉川村和田(現・愛知県豊橋市石巻町いしまきちょう和田地区)にまで落ち延び、同地に住み着いた。その後この一族は、吉野から三河へと遷ってきた南朝に仕えたらしく、盛勝の子・平馬がその記録として残したのが『青木文書』であった。』

青木 和田尉 盛勝(あおき わだのじょう もりかつ)は、後醍醐天皇に近侍した公卿千種忠顕の子で、千種忠顕が延元元年/建武3年6月7日(1336年7月15日)白川口の合戦で戦死した後、三河の国の玉川村和田に落ち、青木和田尉盛勝と名乗り、長慶天皇とその皇子松良親王に近侍し、長慶天皇崩御後、長慶天皇の御尊毛を王田淵の王田天神に納めて祀り、御尊体を五井一本木萬福寺に納めた。青木和田尉盛勝は一子「青木平馬」によって五井青木神社に祀られたと「青木文献」に記されている。
青木和田尉盛勝が後醍醐天皇から三河の国を賜り、細井両将を連れて三河国の守護になったことは京都市山科区日ノ岡町の日向大神宮古文書にも記録されている。
三河の国の玉川村和田とは、愛知県豊橋市石巻町和田辻や豊橋市立玉川小学校のある愛知県豊橋市石巻町和田地区のことで、愛知県豊橋市石巻本町嵯峨にある春興院の付近に青木和田尉盛勝の拠点「和田城」が有ったと伝承されている。
また、愛知県西尾市吉良町上横須賀字青木の「青木城跡」の伝承では、青木盛勝は、青木城(西尾市)の8代城主で、1379年(天授5年)7月、西条城主吉良俊氏の来襲で城を焼かれ、翌1380年(天授6年)1月6日、三河落合城の合戦で討死し、御油の青木神社に祀られたとでている。
三河吉野朝の事績を記録した古文書「青木文献(千種文献)」は、青木和田尉盛勝の子「青木平馬」が応永30年(1423年)と同31年(1424年)に書き残した3通の覚え書の事。
参考文献

中西久次郎・家田富貴男『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』(三河吉野朝聖蹟研究所、1940年)
藤原石山『三河に於ける長慶天皇伝説考』(南朝史学会、1979年)

  • 藤原丸山『長慶天皇の傳説と木地屋民 : 尾三遠南朝史論』(南朝史学会、1961年)
  • 藤原丸山『三河南朝遺臣潜居史考』(南朝史学会、1961年)
  • 藤原丸山『南朝王子の傳説とその考證 : 尾三遠南朝史論 ; 南北朝時代に於ける上野国新田郡と三河』(南朝史学会、1962年)
  • 藤原丸山『南朝正統論 思想編』(南朝史学会、1962年)
  • 藤原丸山『富士谷南朝秘蹟と両朝の策謀』(南朝史学会、1963年)
  • 藤原丸山『三河吉野朝玉川宮御遺蹟の研究』(南朝史学会、1964年)
  • 藤原丸山『南朝三代説と長慶天皇の御在位 : 南北朝時代の謎を解く』(南朝史学会、1964年)
  • 藤原丸山『南朝正統皇位継承論』(南朝史学会、1966年)
  • 藤原丸山『尹良親王の伝説』(南朝史学会、1971年)
  • 藤原石山『渥美神戸久丸神社寝祭り考』(南朝史学会、1976)
  • 藤原石山『三河に於ける長慶天皇伝説考』(南朝史学会、1979年)
  • 藤原石山『三河に於ける長慶天皇伝説考資料編』(南朝史学会、1979年)
  • 藤原石山『西浦山無量寺と懽子内親王』(南朝史学会、1981年)
  • 藤原石山『長慶天皇の三河遷幸と諸豪の動き』(南朝史学会、1982年)
  • 藤原石山『三河国境の南北朝攻防戦』(南朝史学会、1983年)
  • 藤原石山『南北朝の正閏と天皇論』(南朝史学会、1984年)
  • 藤原石山『南朝正統皇位継承論』(南朝史学会、1988年、再版)
  • 藤原石山『稲荷信仰と陀枳尼真天の御正体』(南朝史学会)
  • 藤原石山『石巻山ー南朝忠臣高井主膳正資料収録』(南朝史学会)
  • 藤原石山『三遠』(三遠文化協会)

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