公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

「ピースメイカーズ」 マーガレット・マクミラン著 2

2015-08-10 11:05:02 | 今読んでる本
「連合国が犯した間違いは、かなりあとになるまで明らかにならなかったが、休戦条約の結果、過半数のドイツ人が当初祖国の敗北を実感せずにいた。」p212 ドイツ問題

こうした反省が欧米知識人に共有されていることを、改めて認識した。つまり休戦の段階からドイツ国内が連合国に軍靴によって蹂躙されることがなかった事実が、歴史を一層困難なものにした。

その反省が日本を敗戦に追い込んだ後の徹底した蹂躙である。戦争継続できないと分かった19年末以降の空襲、沖縄戦、炎のカーペット爆撃、そして広島、長崎への原子爆弾投下。1948年までの徹底した産業破壊と財閥金融解体、公職追放と不当な見せしめ裁判(上告なし、事後設置法基準による裁判、既存国の刑事法体系を無視した起訴)。7年間の占領を通じた教育文化の破壊、様々なドイツにおける第一次大戦後の不徹底を反省して、徹底的に破壊し敗戦を植え付けた。

パリには多くの政治家や代表が集まっていたが、3月13日までのピースメーカーズとは、せいぜい4人の政治家ウィルソン、クレマンソー、ロイド・ジョージ、ハウス大佐のことと言っていい。其れ以降は、四巨頭らと呼ばれるウィルソン、クレマンソー、ロイド・ジョージ、オルランドが毎日二回顔を合わせるというのが、パリ講和会議の実質審議で、日本などはその外の各国外交官の会議に加えられるのがやっとだった。ウィルソンは日に日に弱っていった。
「イギリスはアメリカに47億ドルの借金があり、フランスはイギリスに30億ドルの借金、アメリカにも40億ドルの借金があった。」アングロ・フレンチ融資のことであろう。J.P.モルガン&カンパニーはウォール街史上最大の海外向け融資となる5億ドルのアングロ・フレンチ融資を仲介(J.P.モルガンのホームページの沿革に書かれている)。戦争が終わって確実だったことは、誰かが支払わなければならないということだけだった。ここが大切なところである。なにもかもう破壊して後に、借金だけは消滅させられなかった。デフォルトを許さなかったのだ。ドイツに課すことが出来るのはせいぜい100億ドル(20億ポンド)だった。ロイド・ジョージは連合国間の借金を免除することを狙ったが、実現しなかった。それが戦争というビジネスだったことを、当事者たちも知らなかったと見える。

1945年から今日まで平和の金銭価値が戦争の金銭価値を上回るから日本は戦争をしていない。しかし望まなくても、この先の世界経済で、戦争の金銭価値の持続性が平和の金銭価値の持続性を上回る予想が立てば、戦争のシナリオを発動させたい投資家は現実に存在している。これを忘れてはいけない。かつて平和の配当と言われた経済成長が、平和のコスト(たとえば、武装していないから土地を奪われたパレスチナ人達のように)に転じれば、どんな国も戦争を選ぶ。どんなことがあっても戦争を選ばないという国民は平和の配当が常にプラスであることを前提にしている狭い議論しか知らない人々だ。
ダヴィド・ベン=グリオンは1956年ナフム・ゴールドマン(世界ユダヤ人会議議長)に対してこのように述べている。
『もし私がアラブ人指導者なら、イスラエルとは決して仲直りしないだろう。それは当然だ。われわれは彼らの国を奪ったのだ。確かに神がそれをわれわれに約束した。しかしアラブ人にとってはそれはどうでもよいことではないか。われわれの神は彼らの神ではないのだ。われわれはイスラエルの民だ。それは確かなことだが、もう二千年もまえの話だ。彼らにとってそれが何だというのだ。ユダヤ人排斥思想はずっと存在し続けている。ナチス、ヒトラー、アウシュビッツ。だがそれはアラブ人の罪だったのだろうか。彼らアラブ人が見たのは、”イスラエル人がここにやってきて、自分たちの土地を盗んでしまった。”その事実だけだ。それを受け入れろと言っても無理なことだ。』(イスラエル・ロビー p176】
ダヴィド・ベン=グリオン(He-David_Ben_Gurion.ogg David Ben-Gurion(1886年10月16日 - 1973年12月1日)は、イスラエルの政治家。首相(初代・第3代)を務めた。ポーランドのプロニスクで生まれ、パレスチナ移住後はユダヤ系住民のイギリス軍への参加を呼びかけると共に、ナチスの弾圧によって多くのユダヤ系難民がパレスチナへ押し寄せる様になると、これを規制しようとするイギリス当局と折衝して難民受け入れに尽力した。
1947年に国際連合がパレスチナ分割を決議するとメナヘム・ベギンら率いるイルグンなど過激強硬派のテロや反発を抑えながら、1948年5月14日、イスラエル国家の設立を宣言した。彼はイスラエル独立宣言の中で、新しい国家は「人種、信条、性差に偏見を持たず、市民の完全な社会的、政治的平等を守る」と述べた。

ナフム・ゴールドマン “世界ユダヤ人評議会”議長となったナフム・ゴールドマンは、『自伝』の中で、チェコの外務大臣、エドゥアルト・ベネスと1935年に会った際に、ベネスから非難を受けた経過を語っている。その際、ベネスが非難したのは、シオニストが“ハアヴァラ”(移送協定)でヒトラーヘのボイコットを破ったことと、世界シオニスト機構がナチズムに対する抵抗運動の組織化を断ったことに関してである。シオニストと非シオニストにユダヤを分割した罪を詰られている。

《私の人生には、辛い会談に参加した経験も数多いが、あの二時間ほどに不幸で不名誉に感じたことはない。私は、全身のすべての神経で、ベネスが正しいと感じていた》(ナフム・ゴールドマン『自伝』)

かれらシオニストたちの若き頃、1880年~1920年までの間に400万人のユダヤ人をヨーロッパからパレスチナに移住させようとしたが、実際には400万人のほとんどはアメリカに移住した。パレスチナに移住したのはわずか一万人。ヒトラーが政権につくまでは、英国が許可したパレスチナ移住枠を満たすことさえできなかった、シオニズムは惨めなものであり、ヒトラーの支援を“ハアヴァラ”(移送協定)受けていたことを、物語っているのだ。ナフム・ゴールドマンらシオニストの一派とヒトラーは同一政治目的の同盟者だったのだ。
預言者エドガー・ケイシー(Edgar Cayce, 1877年3月18日 - 1945年1月3日)のリーディングに頼らずとも、証拠は揃っていたし、ナチスは計画的に移住させる過程であった。
エドガー・ケイシーは、1939年時点でドイツの目的を「『ダニエル書』の最後の2章を読みなさい。また『申命記』31章を見なさい。そこに答えを見い出すだろう。」と答えた。


日本人も世界の政治家の殆どもこれハアヴァラ(移送協定)ヒトラー政権誕生の6ヵ月後に結ばれた、つまりハアヴァラ協定、を知ることはなかった。


『満州国はピタッと門戸を閉鎖した。ユダヤ人たちは、わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って野営的生活をしながらオトポール駅に屯ろしている。

もし満州国が入国を拒否する場合、彼ら(ユダヤ難民)の進退は極めて重大と見るべきである。ポーランドも、ロシアも彼らの通過を許している。

しかるに『五族協和』をモットーとする、『万民安居楽業』を呼号する満州国の態度は不可思議千万である。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは満州国独自の見解でもあるのか』


とユダヤ人に同情していた樋口季一郎は以下のように演説したという。その容易に見えざるユダヤへの功績があって、米国はソ連の要求した戦犯リストから樋口中将を除外された。もちろんその背景には世界ユダヤ人会議評議会の力が働いていた。

1937年(昭和12年)8月 関東軍に特務機関長として着任したその年の12月。樋口はハルビンの内科医でハルビンユダヤ人協会の会長だったアブラハム・カウフマン博士(1885~1971)の訪問を受けた。
1937年(昭和12年)12月26日に第一回極東ユダヤ人大会が開かれ、来賓として招かれた樋口は、
『諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何れの場所においても『祖国なる土』を持たぬ。如何に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。

ユダヤ人はその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比し、劣ることなき才能と天分を持っていることは歴史がそれを立証している。然るに文明の花、文化の香り高かるべき20世紀の今日、世界の一隅おいて、キシネフのポグロム(迫害)が行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心悲しむものである。

ある一国(ドイツのこと)は、好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。それを何処へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示しあらかじめそれを準備すべきである。

当然の処置を講ぜずしての追放は、刃を加えざる虐殺に等しい。私は個人として心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ。』

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