公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

「部分と全体」 2 W. ハイゼンベルク

2015-09-09 16:10:01 | 今読んでる本
『あの晩の夜半の事だっただろうか、私は突然アインシュタインとの対話を思い浮かべ、そして彼の意見「理論があってはじめて、それが何を観測できるかということを決定するのだ。」を思い出した。この長く閉ざされたドアを開く鍵はここにあるに違いないことを、私はすぐに悟った。そこでアインシュタインの意見の帰結をよく考えてみるために、私はその時すぐに、ファレ公園へ真夜中の散歩に出かけたのであった。』。。。『確かにわれわれは、いつでも霧箱の中における電子の軌道は観測することができる、と軽々しく言ってきた。しかしひょっとすると、人が本当に観測するものはもっとわずかなことであるのかもしれない。おそらく、不正確に決められた電子の位置のとびとびの列だけを認め得るのかもしれない。事実、箱の中の個々の水滴だけを人は見ているのであり、それは確かに一つの電子よりはるかに広がったものである。』『だから正しい設問は次のようなものに違いない。量子力学において次のような状態を表現することが出来るか?その状態では一つの電子が、ある程度の不正確さΔxでもって、ある一つの与えられた場所に存在し、また同時に、再びある程度の不正確さΔpでもって、前もって与えられた速度の値を持ち、そしてこの不正確さの程度を、実験との間に困難を来さないように、できるだけ小さくすることは出来るか?と。』p127

ここにも第三の直感の証拠がある。ハイゼンベルクの追想に見られるように、”蓋然性を物質世界に含みうる識別論理固有ベクトルと固有値があるのだ”という答えが先に見えてきたので設問する事が出来たという設問成立の過程的構造に逆位が保持されている。人は答えを先に見て、パースペクティブの呪縛が解けて、はじめて説得性の高い設問が出来る。科学者は問題を解いてはいない。何者かに問題を逆向きに解かされている。稲妻に打たれたような空白を飛び越える瞬間がかならずある。

我らは如何に真実として新理論を理解したとしても、先人の脳裏まで共有することが出来ない。脳裏で起こった事はその時点では幻想や幻覚と区別できない。これを区別するのは精神の集積と畏れない心であって、迷う理性、常識の迷いを離れる時だけ。



原則を信じこませるためには、言説は真実の説明と一致する必要がない。それが《支配のための》ポストモダニズムという奇妙な知識の病のない時代、20世紀初頭には健全なディスカッションがあった。


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