公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

選択すべきこと

2010-04-09 22:46:10 | 日記
「ヴェネツィア人はミラノ公に対抗するためフランスと結びました。この同盟はその破滅の原因となりましたが、この同盟は避けることができたものでした。しかし、教皇とスペインが派兵してロンバルディアを攻撃したときにフィレンツェに起ったように、同盟が避けがたいときは、前に述べたように、君主はどちらか一方の側の味方とならざるをえないのです。」
「どんな政府も完全に安全な政策を選択できると思ってはなりません。むしろ極めて不確かな政策をとらざるをえないと思うべきです。なぜなら、一つの困難を避けようとして、別の困難に陥ることは、普通の出来事ですから。そうではなくて、思慮分別というものは、困難の性質を見分ける方法を知り、より害の少いものを選ぶことにあるのです。」

   第21章 君主は名声を得るためにどうふるまうべきか
http://ebooks.adelaide.edu.au/m/machiavelli/niccolo/m149p/chapter2.html http://freett.com/rionag/machiavelli/prince.html#ch21
   マキャヴェッリ
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「自由とは楽しいものではない。幸福、安心、平和、進歩のいずれでもない。それは選択の責任である。(中略)楽しいどころか重荷である。それは、自らの行動と社会の行動にかかわる選択の責任である。」

 「産業人の自由 自由の本質(The Nature of Freedom)」より
   ドラッカー
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(私の考え)
 私は日本人にとってこれがドラッカーの最も重要なメッセージと思っている。われわれ日本人が戦争に力つきてからずっと追い求めていたものは、ここにいう「幸福、安心、平和、進歩」だった。
 私たちが子供だった頃、戦争の無い幸福、戦争の無い安心、戦争の無い平和に満ちていた。日々目にするものは進歩していた。すっかり自由は楽しいものだと思っていた。平和な時代に日本人が置き忘れて来た事がまさに選択する責任の苦悩的自由だった。
 未だに日本には正解しか求めない論調が強いが、政策の選択には100点は無い。自由度という意味では経営も政治も同じであり、ただ通常は「より害のないものを選ぶ」自由しか無いのです。
 もしその選択にあたり国民が一切の痛みを受け付けなかったら、だれも自由を手にする事はできない。日本人が正すべきところは、だだそれだけです。消費税も米軍基地も定数削減も選択の責任から冷静に「より害のないものを選ぶ」自由を責任を引き受けるか覚悟で行うべきです。

<自由=責任価値体系>
 自由の無い状態は責任の無い状態であり、何者かに隷属する奴隷であり続けるという事です。それで良い訳がありません。
 このままでは日本人は大きく道を誤る事でしょう。
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