公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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Kindleで読む、竜馬がゆく 2

2013-06-30 11:56:25 | 今読んでる本
司馬遼太郎 「竜馬がゆく」 より 「一民族の居住地を神の縄張りとみ、神聖とみ、異民族が足を踏み入れると穢れる、という土俗思想は、何も日本に限ったことではない。ニューギニアの未開人にさえある。ふるい時代、ヨーロッパにもあった。水戸学は、この土俗風土を調味料として、中国の尊王賤覇(王家を尊しとし、武力で開いた政府を低しとする考え)の思想を中心としたもので、思想と言うよりも、宗教味をおびていた。」

坊主憎けりゃでしょうかね、水戸学の根本である日本神道まで蔑むような描き方はちょっとやり過ぎでしょう。その上、桜田門外の変の暴発だけは司馬遼太郎が肯定しているという矛盾はどうなってるのだろう。盗ってつけた階級闘争の価値観で歴史を書き直すと都合の悪いことがいっぱい出てきてしまうということだ。戦後に有名になった知識人というのは常にこの程度だった。なんらかの日本国否定(司馬の場合は維新以来の鬼胎が表に出てしまったと説明するが)をしなければ現在を正当化できなかった。これが2300万部も売れたというのだから実に馬鹿馬鹿しいお伽話を信じたものだ。

水戸学そのものがどういう役割を担ったかは神学論争になる。現実はまっすぐには進まず、水戸の三田、藤田東湖も、武田耕雲斎戸田忠太夫も、京に上ることはなかった。安政の大獄と斉昭の病死、安政大地震による小石川藩邸倒壊で死亡し、空間的に京都の政局から隔絶されていたのだ。(戸田忠太夫の実弟の安島帯刀は安政の大獄以前江戸京で活躍した。一橋家臣の平岡円四郎や福井藩士の中根雪江橋本左内、儒者の梅田雲浜、公家の家臣・飯泉喜内、五摂家筆頭の近衛家老女・村岡、水戸徳川家の縁戚にあたる鷹司家や三条家、薩摩藩士の西郷隆盛は大獄以前の尊王攘夷ネットワークをつくった。)彼らが橋本左内や西郷隆盛に与えた感化は無視できない西郷隆盛が西南戦争に担ぎ出されるまま自死を選んだのも、月照をはじめ大獄で散った彼らの無念が念頭にあったのだろう。そういう人々を十把一絡げに司馬遼太郎は「宗教的攘夷論者」と吐き捨てる。これは公平でない。水戸にも旧弊派閥などといった改革を進める上での問題があったが、それは他藩も同じことだった。司馬遼太郎には西郷南洲の無念の本当は理解できていないのだろうよ。

「宗教的攘夷論者は、桜田門外で井伊大老を殺すなど、維新のエネルギーにはなったが、維新政権はついにかれらの手ににぎることはできなかった。」「しかしその狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争を引き起こして、国を惨憺たる荒廃におとしいれた。」p2157~2162 司馬遼太郎 「竜馬がゆく」 

水戸学と昭和維新将校に共通するのは狂信だけだろう。維新のエネルギーだけは肯定し、公武合体派を壊滅させ権謀術数で権力を握った薩長土肥を支持する明治維新の結果から解釈した歴史はまさに司馬遼太郎による三世代前の正史編纂が「竜馬がゆく」に相当する。歴史はこのように一面的ではない。司馬の描く架空の人物、竜馬はどうか知らないが、歴史上の人物龍馬(柔直)には徳川を壊滅させてから薩長土肥を中心に新しい世を開こうとかんがえていた記録はない。

*  参考「革命には3段階あって、思想と行動と建設。思想があって、破壊する行動があり、最後に新しい世の中を建設していくことが革命だ。」司馬遼太郎『世に棲む日日』





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