公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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知の消費 その9 2021年 元旦 雪下麦出

2021-01-01 12:29:00 | 知識を消費するということ
また一つ歳をとった。「めでたくもありめでたくもなし」



一年の計は元旦にあり。
今年のテーマは「聞く」。
酒を聞くとはユダヤ人のトーラー教えにある理知識別である。日本酒の知識のない者には酒は味わえない、ただ酔うだけである。同様に結局、世界は人類にとって知識善悪識別以上のものではない。電子の存在を知らなかった時代の人類を想像してみると良い。
人類の少ない知識のみによっては、人類はただ地球を甘美と怠惰の果実と酒として資源を貪るだけである。




歴史に聞け

  『十八世紀のユダヤ思想家のモーゼス・メンデルスゾーンや今日のイシャヤウ・ライボビッツ、またスピノザなども、ユダヤ教とは法律であり生活様式であって、信仰などの思想様式ではないと論じたが、彼らもイスラエルの民と同様であった。
  ここでヘブライ語の「聞く」という単語は、耳で聞くという意味のみならず、理解する、知識を得る、理知的に識別するという意味をもつことを記憶しておいていただきたい。(申命6・4の〝シェマー・イスラエル(イスラエルよ、聞け)〟を参照)』

これに対して『おのずからわかるということは区別と判断の意識過程から独立した無差別智が分別智(悟性や設問と答えのセット)から独立している(つまりプログラムの外)状態にほかならない。これは大悟に至るには、教養ではなく、別の道』である。イメージに向かう情緒、あるいは困難をなんとかしようとする情熱、頭から離れない悩まし続ける疑問が「おのずからわかる」別の道を準備する。

モーゼス・メンデルスゾーンMoses Mendelssohn1729年9月6日 - 1786年1月4日)は、ドイツユダヤ人哲学者啓蒙思想家である。

モーゼス・メンデルスゾーン
Moses Mendelssohn
1771年の肖像
生誕1729年9月6日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国アンハルト=ベルンブルク侯国 デッサウ
死没1786年1月4日(56歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ブランデンブルク辺境伯領 ベルリン
地域西洋哲学
ドイツ
署名
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ロマン派作曲家フェリクス・メンデルスゾーンの祖父に当たる。感覚と信仰の上に立つ哲学を説き、当時の哲学者カント批判哲学を論難した人物の一人でもある。晩年には、友人のレッシングスピノチストであるか否かをめぐって哲学者ヤコービら当時の知識人と論争を起こした(父は名をメンデル・ハイマン (Mendel Heymann) といい、「デッサウのメンデル」という意味でメンデル・デッサウと呼ばれていた。モーゼスもモーゼス・メンデル・デッサウなどと呼ばれていたが、後に「メンデルの息子」という意味でドイツ語風にメンデルスゾーン姓を名乗るようになった。

ユダヤ人の貧困階層のため就学できず、父親とラビダーフィト・フレンケル英語版(David ben Naphtali Fränkel (1704 - 1762) [1])から聖書やマイモニデスの哲学、タルムードなどの(すぐれてユダヤ的な)教育を施される。このフレンケルがベルリンへ移住したため、後を追って同地へ移り住んだ。同地で貧困と戦いながら、ほぼ独学で哲学等を修得した。その他、ラテン語、英語、フランス語なども修めた。また、ジョン・ロックヴォルフライプニッツスピノザなどの哲学に親しみ、これらの教養がかれの哲学の下地となった。 21歳の時、裕福なユダヤ商人イサーク・ベルンハルトから子どもたちの家庭教師を依頼され、この任を4年務めた後、ベルンハルトの絹織物工場の簿記係となった(後には社員、そして共同経営者となった)。

メンデルスゾーンは、当時キリスト教徒から蔑視されていたユダヤ教徒にも人間の権利として市民権が与えられるべきことを訴えるとともに、自由思想や科学的知識を普及させ、人間としての尊厳を持って生きることが必要であると説いた。そうした目的を成し遂げるためには、信仰の自由を保証することが必要であるとした。そしてこうした考えを、体系的でない、いわゆる「通俗哲学」として表現した。ユダヤ教徒の身分的解放という点で、メンデルスゾーンの果たした役割は大きい。


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