公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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李鴻章は売国奴か

2012-07-26 15:22:03 | マキャヴェッリ
はたして李鴻章は売国奴だろうか?

むしろ中国が持続するならば(以降歴史を踏まえ、あえて万里の長城から南を支那と言う)支那の恩人ではないか。彼が死ぬ前に引き入れた帝政ロシアの満州南進は日本をトコトン苦しめた。なぜロシアが長城の北に進出できたか?多くの人が忘れているが、万里の長城こそが支那の国境だったのだ。もし日露戦争に日本が引き分けていなければ(決して勝ってはいない)、どれだけ明治政府日本が統治を継続できたかわからない。清は決して小国ではなかったが、崩壊寸前の大清帝国が継続するために最善の布石をして死んでいった恩人李鴻章を正当に評価できない限り、支那は歴史文化を持ち得ない。

文革のように、ただ外に敵を求めて粛正と内部破壊を繰り返すだけの支那は歴史文化に何も積み上がらない。数千人にもなった今週の江蘇省南通市「王子打倒」暴動などは典型的な支那の<作られた先入見>の現状だろう。

毎日新聞によると「デモ隊は、計画を推進する地元政府トップを「売国奴」と批判。日中が対立を深める沖縄県・尖閣諸島(支那名・釣魚島)の問題に言及し、日本への反感を口にするデモ参加者もいた。」という。トヨタの車を破壊する暴徒がいたことも映像に流れた。

理を以て己を律する事は、林羅山の古来より理性は疑問を小さくする道具である。そして理性に支えられた信仰は安定した社会を造るレンガであった。 それがいまや、メディアとスクリーンが理性と権威、信仰の代替である。理性が概念や言葉やスローガンに代替された時代、多少は知識人が理性を代替する役割を果たした。今やマスメディアとスクリーンが理性ばかりでなく善を代替する。その時代も終わろうとしている。

未来社会は知識社会であり、イノベーションをいっそう必要とする社会であるから、大きな無知と小さな疑問で諸事が解決するほど単純でも狭小でもない。

国民がメディアの借りものに頼っていて未来社会の萌芽となる貴重な疑問を育てることはできない。不幸な事に官製メディアを信じていない中国国民にメディアに代わる理性が無い、微簿と口コミが国民の統合を不安定にしている。先入観<作られた先入見>の呪縛から解放されることが今の中国に最も必要なこと。

日本はこういう事件に直反射する必要は無いと思う。私は日本にとって中国が本質的な敵であるとは思わないが、発展的に無害にする必要がある国と思っている。中央集権と共産党との二重支配の中国に国民の不満はつのるばかりでやり場が無く、やがては制御不能に大きくなる。

もし彼我の関係を前提に今の中国に忠告するとしたら、米国の仕掛ける内戦挑発に乗らない事だ。そして一日も早く過去の呪縛から逃れ、新しい政党の政治参加を解放する事だろう。日本のように権力と政体を分離して永久支配する事も可能な事例もある。社会を再生する自然環境と開発余力を失って10年も経過したら内乱で弱みだらけの中国は崩壊寸前の大清帝国と同じ状況に置かれていることだろう。そうなる前にする事は、都市部人口流入を止め、逆に沿海部人口を減少させ、物資と資金の移動を4つほどに分割する事、沿海部、内陸部を南北に分けて4つの国になることだろう。なにより環境汚染を止めなければ、この中華国は成功しない。

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