公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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宇田川榕菴 高橋 克己

2011-01-31 22:08:21 | 日本人
試薬,酸化,還元,水素,酸素,炭素などの化学用語を作った人の事を教える教師に会ったことが無い。なんでだろうね。今や漢字圏でどこでも使う用語なのに日本人が基礎を輸入して咀嚼した事忘れない様にしてね。


化学辞典より


宇田川榕菴
[Udagawa‚ Yoan]
1798.4.24-1846.8.13

 江戸時代の蘭学者.寛政10年3月9日生まれ.弘化3年6月22日没.業績は多岐にわたるが,植物学・化学をはじめとするヨーロッパの近代科学の日本への本格的な紹介者である.なかでも元素,試薬,酸化,還元,水素,酸素,炭素など現在も使用される化学語彙(い)の多くは,かれによってつくられたものであり,日本における“近代化学の始祖”とよべる.榕菴は大垣藩医江沢養樹の長男として江戸に生まれ,若くして才覚を認められて,津山藩医で蘭学の名門宇田川家に宇田川玄真の養子として入った.解剖学・外科などからはじまった蘭医学の伝統を,内科から薬学そして植物学・化学へというように基礎科学の方向に深めた.かれはオランダ商館の医官 P.F.J. Siebold(1796~1866年)らとの交流もあり,薬学・本草学について“植学啓原”(1835年)という本格的な植物学書を刊行した.その最大の業績は,「舎密開宗」(せいみかいそう)(1837~1847年)の執筆・刊行である.タイトルの舎密(せいみ)とは,オランダ語のChemieの音訳.残念ながらかれの死去により刊行は中断されたが,その大元(宗)を開くというタイトルに相応しい膨大で精密な書物である.この本の原本となったものはイギリスの W. Henry(ヘンリー*) の初等化学書のオランダ語訳であるが,かれはこのほかにも入手できる限りの24冊のオランダ語の文献を縦横に駆使してこの本を書いており,A.L. Lavoisier(ラボアジエ*) による化学革命の衝撃をさまざまな形で展開した当時のヨーロッパの化学を,オランダ語を通じて吸収した集大成といえる.しかし,いわゆる先端理論の紹介ではなく,ヨーロッパの化学書で語られるさまざまな化学物質を,和漢の典籍から仏教文献に至るまで,古今東西の書物から得られる物質に関する情報に照らして逐一検証し,また自ら温泉水の分析などをはじめとする実験を試みたあともみられ,化学的な百科全書・博物書である.ほかにコーヒーの紹介,西洋音楽の検討や地理学などの著作もあり,奥の深い知識人だが,シーボルト事件などをはじめとするたび重なる蘭学弾圧事件への連座を逃れるためと推測される資料の隠ぺいや意図的な放棄などがあり,その人物像は不明確な点が残る.

高橋 克己(たかはし かつみ、1892年3月9日 - 1925年2月8日)は、和歌山県和歌山市出身の農学博士。
生涯
明治25年(1892年)3月9日、和歌山県海草郡木本村(現:和歌山市木ノ本1038番地)に7人兄弟の長男として生まれた。
木本尋常小学校、旧制和歌山中学校(現:県立桐蔭高等学校)を卒業、その後第三高等学校、東京帝国大学農学部農芸学科を経て、東京帝国大学院に入学し、在学中は脂肪の栄養に関する研究に専念した。
大正9年(1920年)11月23日、奈良県の藤岡長二郎六女・英子と結婚し、大正11年(1922年)5月に長女・ユリが生まれ、大正13年(1924年)4月には次女・多恵が生まれている。
大正11年(1922年)9月13日、日本化学会でそれまで存在は認められていたが、抽出が困難とされていたビタミンAをタラの肝油から分離・抽出することに成功したと発表。
翌大正12年(1923年)、理研コンツェルンの研究員になり、ビオステリンの名称で栄養剤にして、「油脂よりビタミンAを抽出する方法」で欧米各国で特許を取った。また、この発見は、夜盲症に悩む多くの人々を救った。その後、同じくビタミンAの抽出に貢献した鈴木梅太郎とともに帝国学士院賞を受賞し賞金を得たが、それを母校の和歌山中学校に全額寄付した。この年から死後の昭和5年(1930年)までの8年間で、48万円(現在の金額に換算すると7億2,000万円)程度の発明報奨金を得ている。
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